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[[Image:GeorgeEverest.jpeg|thumb|links|ジョージ・エベレスト]]
 
古代、この高峰はサンスクリット語で'''デーヴギリ'''''Devgiri''(神聖な山という意味)または'''デーヴァドゥルガー'''''Devadurga''(19世紀の[[英語]]の発音はデオドゥンガ deodhunga)と呼ばれていた。日本でもエベレストという呼称に次いで多く用いられる'''チョモランマ'''は、チベット名に基づく。現在、ネパールでの名称は'''サガルマータ'''または'''サガルマタ'''({{lang|ne|सगरमाथा}} Sagarmatha)で、「世界の頂上」という意味である<ref>[http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=2014010602&source=rss 冬のヒマラヤ山脈、エベレスト] ナショナルジオグラフィック 2014年1月6日</ref>。チベット語では'''チョモルンマ'''({{lang|bo|ཇོ་མོ་ཀླུངས་མ་}}<ref name=tibet/> jo mo klungs ma)または'''チョモランマ'''({{lang|bo|ཇོ་མོ་གླང་མ་}}<ref name=tibet/> jo mo glang ma)で、語源は諸説ある(発音、表記も異種がある)が、現在定着している語は「大地の母神」という意味である。中国語では、チベット語を転写した'''{{lang|zh|珠穆朗瑪峰}}'''(Zhūmùlǎngmǎ Fēng)または、意訳である'''{{lang|zh|聖母峰}}''' (Shèngmǔ Fēng)と呼ばれている。
 
[[1865年]]、イギリスの[[インド測量局長官]]([[:en:Surveyor General of India|Surveyor General of India]])だった[[アンドリュー・ウォー]]([[:en:Andrew Scott Waugh|Andrew Waugh]])によって、前長官ジョージ・エベレストにちなんだ英語名がつけられた。ウォーは地元民の呼び名がわからないとした上で、手記に以下のように記している(当時、ネパールもチベットも外国人の立ち入りを認めていなかった)。
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[[ファイル:Panoramique_mont_Everest.jpg|thumb|right|500px|エベレストを中心に捉えたパノラマ写真]]
[[ファイル:Himalayas.jpg|thumb|300px|[[国際宇宙ステーション]]から望むヒマラヤ山脈]]
[[1852年]]、インド測量局の技師で[[ベンガル地方|ベンガル]]出身のインド人測量技師、[[ラーダナート・シクダール]](Radhanath Sikdar) が240 [[キロメートル|km]]はなれたインドから[[三角測量]]した結果、''P-15 (Peak XV)'' という仮称で呼ばれていた山が世界最高峰であることを発見した。当時ネパールは「禁断の王国」であり、外国人は入ることはできなかったため、より近距離での測量は不可能だった。測量の結果によればP-15 (Peak XV) の標高は約8,840 m (29,002 [[フィート|ft]]) だった。<ref>{{Harvnb|ウェイド・デイヴィス|20152015a|p=73}}</ref>
 
現在最新の標高は8,848 mとされているが、他にもいくつかの異なる標高が測量結果として報告されている。2番目に高い山は[[K2]]で、標高8,611 mである。2005年[[5月22日]]、中国のエベレスト測量隊はエベレストに登頂、数ヶ月に渡る測量の結果、同年[[10月9日]]にエベレストの標高は8,844.43 m±0.21 mと公式に発表した。彼らはこの数値がこれまでで最も正確な標高であるとしている。しかしこの標高は最も高い岩石の部分に基づくもので頂上部分の氷や雪は含んでおらず、[[モンブラン]]や[[テンシャン山脈|テンリタグ]]といった他の高峰の標高の基準と異なっている。測量隊は雪と氷の厚みも測量しており、この結果は3.5 mだったことから、8,848 mという従来の測量結果に誤りはなかったことになる。しかし実際のところ雪と氷の厚みは変化するため、正確なGPSによる測量がなければ、厳密な標高を求めることは不可能とされている。
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== 登頂史 ==
[[1893年]]、探検家として知られ、政務官を務めていた[[フランシス・ヤングハズバンド]] (Francis Younghusband) と第五グルカ・ライフル図連隊の勇将として鳴らしていた[[チャールズ・グランヴィル・ブルース]]准将 (Charles Granville Bruce) が[[チトラル]](現在のパキスタン)のポロ球戯場でエベレスト登頂について話し合ったのが具体的なエベレスト登頂計画の嚆矢であるといわれる。。<ref>{{Harvnb|ウェイド・デイヴィス|20152015a|p=74}}</ref>1907年には[[イギリス山岳会]]の創立50周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案されたが、実現しなかった。しかし、北極点到達([[1909年]])および南極点制覇([[1911年]])の競争に敗れたことで、イギリスが帝国の栄誉を「第三の極地」エベレストの征服にかけていくことになる。遠征計画は第一次大戦の勃発によって先送りになるが、戦争の終結とともにイギリス山岳会と[[王立地理学協会]]が[[エベレスト委員会]] (Mount Everest Committee) を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、エベレスト遠征計画の具体化が始まった。
 
[[1921年]]、エベレスト委員会によって第一次エベレスト遠征隊が組織される。隊長にはグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がふさわしいと思われていたが、軍務に影響があるという理由で回避され、代わりに中央アジアを巡回した経験を持つ歴戦の英雄[[チャールズ・ハワード=ベリー]] ([[:en:Charles Howard-Bury|Charles Howard-Bury]])中佐が選ばれた。隊員として[[カシミール地方]]に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であった[[アレクサンダー・ケラス]]([[:en:Alexander Kellas|Alexander Kellas]])博士、医師の[[サンデイ・ウォラストン]]([[:en:Sandy Wollaston|Sandy Wollaston]])、測量班としてのちにインド測量局の長官をつとめることになる[[オリヴァー・ウィーラー]]([[:en:Oliver Wheeler|Oliver Wheeler]])、インド測量局の局員[[ヘンリー・モーズヘッド]] ([[:en:Henry Morshead|Henry Morshead]])、地質学者の[[アレクサンダー・ヘロン]]([[:en:Alexnader Heron|Alexander Heron]])、登攀部隊のリーダーとして50代のベテラン登山家[[ハロルド・レイバーン]]([[:en:Harold Raeburn|Harold Raeburn]])、若手登山家として知られていた[[ジョージ・マロリー]] (George Mallory) とオーストラリア生まれの[[ジョージ・イングル・フィンチ]] (George Ingle Finch) が選出された。フィンチは直前になって健康を理由にメンバーから外され、代わってマロリーの登山仲間だった[[ガイ・ブロック]] ([[:en:Guy Bullock|Guy Bullock]]) がマロリーの推薦によって選ばれた。第一次遠征隊は登頂そのものでなく、登頂のための周辺調査とルート確認を目的として英国を出発。インドのカルカッタに上陸後、ダージリンからチベットを回り込んでエベレストを目指した。チベットのカンパ・ゾンでは体調がすぐれなかったケラス博士が心臓発作で亡くなるというアクシデントに見舞われたが、遠征隊はエベレストの[[ノース・コル]](North Col、チャン・ラとも呼ばれる、標高7020m)にいたるルートを確認するとともに、エベレスト周辺の詳細な地図を初めて作成することに成功して帰国した。
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登山ツアーの1つ Himalayan Experience の客の登頂成功率は悪天候とシェルパの死<ref>[http://dev.himalayanexperience.com/content/everest-2012-newsletter-17 Everest 2012 Newsletter #17 - Himalayan Experience]</ref>により誰も登らなかった2012年を除くと、客を毎年20名前後取るようになった2003年〜2011年で60%〜82%<ref>[http://himalayanexperience.com/pdf/Statistics1994-2012.pdf HIMALAYAN EXPERIENCE STATISTICS]</ref>(この数字はガイド・シェルパを含まず)。
 
日本人専用の登山ツアーとしてアドベンチャーガイズがあり、2004年〜2013年にガイドを除いて23名<ref>[http://www.adventure-guides.co.jp/kobotozantai/kobo_top.html 公募登山隊 - Adventure Guides Web]</ref>参加し、17名登頂成功、2名<ref name="summiter-j">[http://www.everest.co.jp/everest95/summiter-j.htm 日本人登頂者一覧]</ref>死亡(死亡事例はいずれもガイド自身がエベレスト登頂未経験のケースに発生)。
 
=== 年齢制限 ===
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== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|author=ウェイド・デイヴィス|translator=秋元由記|year=20152015a|title=沈黙の山嶺 第一次世界大戦とマロリーのエヴェレスト 上|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560084335}}
* {{Citation|和書|author=ウェイド・デイヴィス|translator=秋元由記|year=2015b|title=沈黙の山嶺 第一次世界大戦とマロリーのエヴェレスト 下|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560084342}}
* {{Citation|和書|author=ピーター・スティール|translator=倉知敦|year=2000|title=エリック・シプトン 山岳探検家波乱の生涯|publisher=[[山と渓谷社]]|isbn=978-4635340144}}
* {{Citation|和書|author=エリック・R・サイモンスン ラリー・A・ジョンソン ヨッヘン・ヘムレブ|translator=海津正彦 高津幸枝|year=1999|title=そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記|publisher=[[文芸春秋社]]|isbn=978-4163559001}}
* {{Citation|和書|author=|translator=|year=|title=|publisher=[[]]|isbn=978-}}
 
== 関連書籍 ==