「ジャーニー (バンド)」の版間の差分

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*'''[[スティーヴ・ペリー]]''' (Steve Perry): リードボーカル、1977–86, 1996–98
*:歴代メンバーの中でもひときわ存在感あふれるボーカリストであり、ジャーニー史上最高のボーカルだったことはバンドメンバーの誰もが認める。その常に安定した音程と極めて幅の広い声域、そしてその印象に残る歌声とメッセージを伝えて余りある熱唱には、多くの音楽関係者や批評家が「百万人に一人の声」「黄金の声」「ザ・ヴォイス」などと称賛を惜しまなかった。在籍中は作詞・作曲のほとんどに参加し、文字通り彼の才能ひとつでバンドの軌道を修正してジャーニーを黄金時代へと導いた。在籍約10年の後、1986年に発表したアルバム『レイズド・オン・レイディオ』のライヴツアーの途中で、ペリーは心労を理由に突然ジャーニーを脱退する。[[母子家庭]]に育ったペリーは母と深い絆で結ばれており、その母を失ったことが非常に大きなショックだったという。それからまた10年、1996年にリリースした再結成アルバム『トライアル・バイ・ファイアー』でペリーは一時ジャーニーに復帰する。このアルバムは大成功となり、カムバックツアーも組まれて、再結成ジャーニーの前途は洋々に見えたが、ペリーはほどなく健康上の理由からツアーの中断と延期を申し出る。ペリーはオフ中[[ハワイ]]で[[ハイキング]]をしていた際に[[股関節]]を負傷、これが歩くこともままならないほどに悪化しており、検査の結果彼は退行性骨関節疾患を患っていることが判明。ペリーは人工股関節置換手術 ([[:en:Hip replacement|en]]) の必要に迫られたが、なかなかその決断ができず、かといってその体ではツアーを再開してもステージに立つことすらおぼつかないというジレンマのなかで時間だけが浪費されていった。一方ジャーニーの他のメンバーたちは、カムバックツアーがいよいよ調子に乗り始めていた矢先にバンドの「顔」が引き蘢ってしまうという異常事態に業を煮やしていた。ツアーの度重なる延期を1年半にもわたって訴え続けたペリーに対し、結局他のメンバーたちは、早急に手術を受けて体を直すか、さもなければ代替ボーカルを探すことに同意するか、という[[最後通牒]]同然の二者択一を迫った。「俺は今後の人生を左右しかねない重大な健康問題に直面して苦悩しているというのに、他のメンバーたちにとってはそんなことよりもバンドの興行収入を確保することを優先するのか」というペリーの怒りと落胆が、彼にジャーニーとの決別を決意させる決定的な理由になった。そして、脱退後は実に7年間の長きにわたって公の場には一切姿を見せず、ほとんど失踪に近い状態にあったことからも、当時の彼の失望と挫折がいかに深い心の傷となったのかが窺える。なおペリーはジャーニーを脱退した後になってやっと人工股関節置換手術に臨んだ。手術は成功し、こちらの傷の方は順調に癒え、ほどなく何の障害もなく歩行やジョギングができるまでに回復している<ref>ニール・ショーン曰く、
「スティーヴの才能は認めるが、必ずしも彼である必要はない」との事。</ref>。[[2015年]]現在、表立った音楽活動は殆ど行っておらず、時折[[ロサンゼルス]]近郊で細々とライブを行っている程度で、今後自身のアルバムのリリースの予定もまったく無い状況にある
 
*'''[[エインズレー・ダンバー]]''' (Aynsley Dumbar): ドラムス・パーカッション、1975–79
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*'''[[スティーヴ・スミス (ドラマー)|スティーヴ・スミス]]''' (Steve Smith): ドラムス・パーカッション、1979–84, 1996–99
*:「鉄壁の職人ドラマー」(当時「Steve Machine-gun Smith」とライブではよく紹介されていた)と呼ばれ、『エヴォリューション』以降のバンドの絶頂期に活躍。再結成時『トライアル・バイ・ファイアー』のジャケット裏面写真でメンバー中唯一スキンヘッドにしていたことでも話題を浴びた(黄金期のジャーニーで活動していた頃はロング・ヘアであった)。他のバンドでの活動履歴も多い。ジャーニー脱退前から活動を始めていたヴァイタル・インフォメーションの活動、[[ジェフ・バーリン]]のバンド、[[マイク・スターン]]のバンドなどにも参加。他に多くのジャズ・セッションにもクレジットされている。[[マライア・キャリー]]や[[ジョシュ・グローバン]]など、ポップス・シンガーの曲にもセッション・ミュージシャンとして数多く参加している。[[2015年]][[11月]]に、バンド及びニール・ショーン、そしてスティーヴ本人の[[Facebook]]及び[[twitter]]で、2016年からジャーニーのツアーに参加する事が公式に発表された。これがディーン・カストロノヴォの解雇を受けての正式な復帰か、一時的なツアーへの参加に留まるかは発表時点では明らかになっていない
 
*'''ロバート・フライシュマン''' (Robert Fleischman): リードボーカル、1977
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*'''[[スティーヴ・オージェリー]]''' (Steve Augeri): リードボーカル、1998–2006
*:1959年1月30日、[[ニューヨーク|ニューヨーク市]][[ブルックリン区|ブルックリン]]生まれ。元タイケット、元トール・ストーリーズ。メンバーによるオーディションで選ばれた。ジャーニー参加直前は一時音楽活動を停止し、ニューヨークの[[ギャップ (企業)|GAP]]の店員として働いていたという。前任のスティーヴ・ペリーに似ているという評判の声質で黄金時代のファンも取り込みバンドの長寿化を促す一翼を担ったが、上述の通り2006年のツアー中に疾病のため離脱し、そのまま脱退した。その後はしばらく療養に専念し、近年{{いつ|date=2013年2月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->トール・ストーリーズを再結成する等音楽活動を再開している。
 
*'''[[ジェフ・スコット・ソート]]''' (Jeff Scot Soto): リードボーカル、2006–07
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* '''ディーン・カストロノヴォ''' (''Deen Castronovo'') :[[ドラムセット|Ds(ドラムス)]]、バッキング・ボーカル 2000-15
*: [[1965年]][[8月17日]]生まれ。正規メンバーとしては4代目のドラマー。元々[[スラッシュメタル]]バンドからプロのキャリアをスタートさせていることもあり攻撃的な演奏が特徴。5歳の頃からドラムの探求を始め、13歳でジャーニーの『[[インフィニティ (ジャーニーのアルバム)|インフィニティ]]』の曲をすべてコピーした。ディーンは最も影響を受けたアーティストとしてスティーブ・スミス、ニール・パート、およびテリー・ボジオの名を挙げる。「ハイ・パフォーマンス・ドラム」というドラムの教則ビデオもリリースしている。ニール・ショーンとジョナサン・ケインらが[[1987年]]に結成した"バッド・イングリッシュ"と、その後ショーンが結成した"ハードライン"の両バンドに参加しており、バンドの主要メンバーとは加入前から既知の間柄であった。また、彼のボーカリストとしての才能はドラムの技能と同様に印象的で(声質もスティーヴ・ペリーと非常に似ている)、過去のヒット曲の一部を自らリード・ボーカルとしてドラムを叩きながらライヴで披露している他、アルバム『ジェネレーションズ』でも2つの新曲で歌っている(3曲目の「ベター・ライフ」、そしてラスト・トラックの「ネヴァー・トゥー・レイト」)。ジャーニー以外のバンドでは、[[オジー・オズボーン]]や[[ポール・ロジャース]]とも組んだことがある(ポール・ロジャースとの演奏においてはニール・ショーンも参加し、来日公演を行ったこともある)。ちなみに、バッド・イングリッシュやオジー・オズボーン在籍当時は名前のカナ表記が「ディーン・カストロノヴ'''ァ'''」となっていた。しかし、2015年6月[[ドメスティックバイオレンス]]の容疑で逮捕されその後解雇保護観察処分の判決を受ける。ツアー中であったバンドはドラマーが欠けることとなったことから急遽[[オマー・ハキム]]をピンチヒッターとして迎えてツアーをこなすこととなった。バンド側は彼の処遇について公に言及していないが、結果としてディーンは[[2015年]][[8月]]にジャーニーのマネージメントからバンドからの解雇通告を受けている。
 
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