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20世紀の棋士の中でも指折りの存在とされており呉清源と共に大正時代から活躍。また、自宅を[[木谷道場|'''木谷道場''']]として内弟子をとりタイトルを争うトップ棋士から普及に専念する地方棋士まで多くの棋士を育てた。
 
弟子たちは1970年代初頭から1990年代半ば頃までタイトル戦線を席巻し、現在孫弟子まで含めた一門のプロ棋士は50人以上、段位の合計は500段を突破し、現代囲碁界の父と呼ぶべき存在であている。
 
弟子に[[大竹英雄]]名誉碁聖・[[加藤正夫]]名誉王座・[[二十四世本因坊秀芳]]・[[武宮正樹]]九段・[[小林光一]]名誉棋聖・[[二十五世本因坊治勲]]・[[小林覚]]九段・ほか多数。
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若くして[[天才]]と呼ばれ、[[1924年]]に[[日本棋院]]が設立されるとすぐに参加している。そこで[[中国]]から来た[[呉清源]]と出会い、後に彼は友人でありかつ最大の好敵手となる。
 
木谷と呉は[[1933年]]から[[1936年]]ごろに「[[新布石]]」と呼ばれる革新的な序盤理論を発表している。彼らは[[1939年]]から「世紀の対局」とも称される「鎌倉十番碁」を打ったが、その結果は呉の勝利に終わっている。[[本因坊]]には3度挑戦して獲得は失敗するなど大タイトルには恵まれなかったが、新布石を初めとした新機軸を多数創案し、その信念に裏打ちされた独創的スタイルは碁界の尊敬を集めた。また全国から優秀な少年を集めて育成した「'''[[木谷道場]]'''」からは多くの大棋士が巣立ち、昭和後半のタイトル戦線をほぼ独占するほどの勢いを示した。その功績は計り知れない
 
大食漢であり、あるときには朝五杯、昼六杯、夜七杯と、どんぶりめしを食いあげたといわれる。大正12年の関東大震災の時には鈴木為次郎の神田の下宿でぶつかり、昼食にかかろうとする時で木谷はおはちを抱えて外に飛び出した(鈴木為次郎談)。
 
元[[国立長寿医療研究センター|国立療養所中部病院]]長寿医療研究センター長の[[木谷健一]](2008年没)は長男。[[法政大学]][[法科大学院]]教授の[[木谷明]]は二男。東京都庁勤務の三男も含め、いずれも東京大学を卒業している
 
棋士の[[小林禮子]]は三女。[[毎日放送]]元アナウンサーで[[フリーアナウンサー]]の[[吉田智子 (アナウンサー)|吉田智子]]は四女。棋士で女流本因坊などを獲得した[[小林泉美]]は孫(禮子の子)。
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== 棋風 ==
木谷の[[棋風]]は生涯何度も変化している。低段時代は戦闘的な棋風で「怪童丸」の異名をとったが、五段時代に新布石を発表して位の高い碁に変化した([[前田陳爾]]はこの時代の木谷を「史上最強の五段」と評している)。1936年ごろからは実利を重んじる棋風となって呉清源との十番碁を戦っている。療養からの復帰後は、先に地を稼いで相手に大模様を張らせて突入する戦法を多く採るようになり、「木谷流のドカン」と呼ばれた。いずれも印象的なスタイルであるが、中でも1933年からの「新布石」構想は革命的な布石として囲碁史に燦然と輝いている
 
== 棋歴 ==