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==歴史==
マラヤ連合の構想は、第二次世界大戦中の19431930年にイギ{{仮ンク|セシル・クレメンティ|en|Cecil Clementi}}作成提唱ていた。彼は海峡植民地総督であり、マラヤ・ブルネイ高等弁務官であった。この構想では華人中心のシンガポールをムラユ人([[マレー人]])地域から分離させ、イギリスの海軍拠点とする戦略が示されていた。また、この構想では各州の[[スルタン]]の権限を制限し、民族の差異無く市民権を与えることになった。そのため、第二次世界大戦終結後の1945年10月にこの構想が示されると、ムラユ人の反発が引き起こされた。民族の差異無く市民権を与えることは、将来的に増加する華人にとって有利であり、ムラユ人の権利侵害につながると考えられた。
 
1946年4月1日、マラヤ連合は発足した。首都は[[クアラルンプール]]におかれた。マラヤ連合の市民権は民族の区別無く平等に与えられ、市民権付与の条件としては、[[出生地主義]]の原則がとられた。スルタンの権限は縮小され、イギリスによる統制が強まった。しかし、ムラユ人の強い反発から、1948年にスルタンの権限を回復させ、マラヤ連邦への移行を余儀なくされた。マラヤ連邦では華人の市民権獲得は困難になった。