「カーシー・ラーオ・ホールカル」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
ミラー海神 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
43行目:
[[トゥコージー・ラーオ・ホールカル]]と[[アヒリヤー・バーイー・ホールカル]]の息子であるカーシー・ラーオは、[[1797年]][[1月29日]]に父親から当主位を[[プネー]]で譲り受けた<ref>[http://www.royalark.net/India/indore3.htm indore 3]</ref>。
 
だが、彼は障害と姦淫癖があり統治者としては不適格だったため、民衆や兵士からから嫌われ、彼の優秀な弟[[マルハール・ラーオ・ホールカル (トゥコージー・ラーオの息子)|マルハール・ラーオ・ホールカル]]を推す声が多かった。彼は弟の[[ヤシュワント・ラーオ・ホールカル]]と[[ヴィトージー・ラーオ・ホールカル]]の支持も得、彼らもまた彼が指導者として統治するべきだと考えていた。
 
カーシー・ラーオは危機に陥り、[[シンディア家]]の当主[[ダウラト・ラーオ・シンディア]]と手を結ぶことにした。シンディア家にとってもまた、北インドにおけるホールカル家の勢力増長は悩ましい話だったので、彼が50万ルピーを支払うことで合意した。