「甘利虎泰」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[板垣信方]]、[[飯富虎昌]]、[[原虎胤]]らと共に[[武田信虎]]時代から仕え(名前の「虎」字は信虎から[[偏諱]]として与えられたもの)、天文10年([[1541年]])の晴信による信虎追放の主導的役割を果たし、武田家の[[宿老]]で、『[[甲斐国志]]』に拠れば最高職位「両職」を務めた譜代家臣とされるが、信虎期の来歴や行政責任者としての実務を示す史料は少なく、史料上の初見は『[[高白斎記]]』天文11年([[1542年]])11月付の甲府へ屋敷を新築した際や、翌天文12年([[1543年]])の[[諏訪郡]]上原城代の板垣信方へ晴信の上意を伝える使者を務めた際や、西郡鷹尾寺([[南巨摩郡]][[富士川町]])へ[[禁制]]を与えた際の文書が見られるのみである
 
史料上の初見は天文9年([[1540年]])11月20日で、高野山成慶院において妻の母「妙善禅尼」の供養を行っている<ref>丸島(2015)、p.59</ref>。天文10年([[1541年]])4月3日にも妻の父とみられる「善由上座」の供養を成慶院で行っている<ref>丸島(2015)、p.59</ref>。
『[[甲陽軍鑑]]』は虎泰を「[[荻原昌勝|荻原常陸介]](信虎の[[軍師]])に劣らぬ剛の武者」と評し、[[山本勘助]]も虎泰の見事な采配ぶりを感嘆している。『軍鑑』や『武田三代軍略』などの[[軍記物]]によると、信虎時代の天文7年([[1538年]])に[[諏訪氏]]、[[小笠原氏]]が甲斐に攻め込んだ韮崎の戦いで二番合戦で手柄を上げ、晴信が家督を継いだ直後に諏訪氏、小笠原氏、[[村上氏]]が侵攻してきた天文11年(1542年)の[[瀬沢の戦い]]でも奮戦しているが、これらの合戦は実在自体が疑われている。長男とされる[[甘利信益|信益]](のぶます、1518~1542)もこの時に戦死したとされる。
 
『[[高白斎記]]』天文11年([[1542年]])11月付の甲府へ屋敷を新築した際や、翌天文12年([[1543年]])の[[諏訪郡]]上原城代の板垣信方へ晴信の上意を伝える使者を務めた際や、西郡鷹尾寺([[南巨摩郡]][[富士川町]])へ[[禁制]]を与えた際の文書に虎泰の名が見られる。
天文16年([[1547年]])の[[佐久郡]]北部の[[志賀城]]攻めに参加。[[関東管領]][[上杉憲政]]が後詰の援軍を派遣したため、虎泰は板垣信方と共に別動隊を編成して伏撃し、[[小田井原の戦い]]で大勝してこれを打ち破った。
 
『[[甲陽軍鑑]]』は虎泰を「[[荻原昌勝|荻原常陸介]](『甲陽軍鑑』において信虎の[[軍師]]とされる人物)に劣らぬ剛の武者」と評し、[[足軽大将]]の[[山本勘助]]も虎泰の見事な采配ぶりを感嘆している。『軍鑑』や『武田三代軍略』などの[[軍記物]]によると、信虎時代の天文7年([[1538年]])に[[諏訪氏]]、[[小笠原氏]]が甲斐に攻め込んだ韮崎の戦いで二番合戦で手柄を上げ、晴信が家督を継いだ直後に諏訪氏、小笠原氏、[[村上氏]]が侵攻してきた天文11年(1542([[1542]])の[[瀬沢の戦い]]でも奮戦しているが、これらの合戦は実在自体が疑われている。長男とされる[[甘利信益|信益]](のぶます、1518~1542)もこの時に戦死したとされる。天文11年9月17日には高野山引導院において子息の与十郎「孝庵全忠大禅定門」の供養を行っている<ref>丸島(2015)、p.59</ref>
天文17年(1548年)2月14日に武田晴信が[[小県郡]]に侵攻して[[村上義清]]と戦った[[上田原の戦い]]において、板垣信方を討ち取って意気上がる村上勢から晴信を守り、[[初鹿野伝右衛門]]らと共に戦死した。子息の信忠(昌忠)が家督を継承する。
 
[[山梨県]][[笛吹市]]石和町松本の[[大蔵経寺]]に伝来する天文13年([[1544年]])3月2日付の[[棟札]]には虎泰の名が見られる<ref>丸島(2015)、p.59</ref>。天文14年([[1545年]])7月5日には[[山梨市]]北の[[窪八幡神社]]へ奉納する晴信自筆の三十六歌仙和歌を受け取っている<ref>丸島(2015)、p.59</ref>。
 
『[[勝山記]]』によれば、天文16年([[1547年]])8月信濃[[佐久郡]]北部の[[志賀城]]([[長野県]][[佐久市]])攻めに参加し、[[関東管領]][[上杉憲政]]が後詰の援軍を派遣したため、虎泰は板垣信方と共に別動隊を編成して伏撃し、[[小田井原の戦い]]で大勝してこれを打ち破った<ref>丸島(2015)、p.59</ref>
 
『高白斎記』『[[王代記]]』『甲陽軍鑑』によれば、天文17年(1548年)2月14日武田晴信は信濃[[小県郡]]に侵攻して[[村上義清]]と戦ったの間で[[上田原の戦い]]においてが行われ、板垣信方を討ち取って意気上がる村上勢から晴信を守り、[[才間河内守|才間河内]]・[[初鹿野伝右衛門]]らと共に戦死したという。子息の信忠(昌忠)が家督を継承する<ref>丸島(2015)、p.59</ref>
 
虎泰の娘には、『系図纂要』『甲陽軍鑑』によれば安中景繁室、坂西左衛門室がいる<ref>丸島(2015)、p.59</ref>。『保科御事歴』によれば、保科正則室としているが、これは世代的問題から否定されている<ref>丸島(2015)、p.59</ref>。