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'''甘利 虎泰'''(あまり とらやす)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[武田氏]]の家臣で譜代家老。後代には'''[[武田二十四将]]'''、信虎時代の'''[[武田四天王]]'''の一人であとされる。
 
[[甘利氏]]は[[甲斐源氏]]・[[一条忠頼]]の流れをくむ[[武田氏]]の庶流にあたる一族平安時代後期には[[甘利荘]]が設置された、[[甲斐国]][[巨摩郡]]甘利郷([[山梨県]][[韮崎市]]旭町付近)を領していたと考えられている。著名な子孫に[[政治家]]の[[甘利明]]がいる<ref>[[厚木市]]編纂 - 『民家の歴史』より</ref>。
 
== 生涯 ==
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『[[勝山記]]』によれば、天文16年([[1547年]])8月の信濃[[佐久郡]]の[[志賀城]]([[長野県]][[佐久市]])攻めに参加し、[[関東管領]]・[[上杉憲政]]が後詰の援軍を派遣したため、虎泰は板垣信方と共に別動隊を編成して伏撃し、[[小田井原の戦い]]で大勝してこれを打ち破った<ref>平山(2008)、p.301</ref><ref>丸島(2015)、p.59</ref>。
 
『高白斎記』『[[王代記]]』『甲陽軍鑑』によれば、天文17年(1548年)2月14日、武田晴信は信濃[[小県郡]]に侵攻して[[村上義清]]との間で[[上田原の戦い]]が行われ、板垣信方を討ち取って意気上がる村上勢から晴信を守り、[[才間河内守|才間河内]]・[[初鹿野伝右衛門]]らと共に戦死したという<ref>平山(2008)、p.301</ref>。子息の信忠(昌忠)が家督を継承する<ref>丸島(2015)、p.59</ref>。
 
== 虎泰の子孫 ==
虎泰の子息には信忠(昌忠)・信康がおり、信忠が家督を継承する<ref>丸島(2015)、p.59</ref>。信忠は[[永禄]]10年([[1567年]])に死去し、信忠の子息である[[甘利信頼|信頼]]が幼少であったため、信康や[[米倉丹後守]]が[[名代]]となり補佐した。一方、[[信康]]は天正3年([[1575年]])5月21日の[[長篠の戦い]]において戦死している。『[[甲乱記]]』によれば、天正10年([[1582年]])3月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際して「甘利左衛門尉」が武田家から離反しており、これが信頼にあたるとも考えられている。その後の信頼の動向は不明。
 
虎泰の娘には、『系図纂要』『甲陽軍鑑』によれば安中景繁室、坂西左衛門室がいる<ref>丸島(2015)、p.59</ref>。『保科御事歴』によれば、保科正則室としているが、これは世代的問題から否定されている<ref>丸島(2015)、p.59</ref>。