削除された内容 追加された内容
Konkon 202 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
Konkon 202 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
4行目:
こうした刑罰は[[平安時代]]後期から存在し、[[平安京]]の左右にあった獄の門前に斬首された罪人の首を晒した事が「獄門」の語源であると言われている。また当時は斬首した首をただ晒すだけでなく、[[矛]]で貫いて京中の大路を練り歩くことも行われたという。以後も同様の刑罰は存在したが、本格的に[[刑法]]体系に取り入れたのは[[江戸幕府]]であったとされている。
 
獄門の刑罰を科される犯罪は、[[強盗殺人]]、[[放火]]、主人の親類の殺害、地主や家主の殺害、偽の[[秤]]や[[枡]]の製造などであった。
 
[[明治]]時代に至っても初期には梟示(きょうじ)と名を改めて引き続き行われていた。[[1874年]]の[[司法卿]][[江藤新平]]や[[絵西南戦争]]時の鹿児島県県令[[大山綱良]]への処刑が有名である。[[1879年]]の明治12年[[太政官布告]]第1号により廃止された。なお、斬首は[[1882年]][[1月1日]]に施行された[[刑法 (日本)#旧刑法|旧刑法]]により廃止されるまで残る(梟首を伴わない斬首が最後に行われたのは[[1881年]])。
 
== 「梟首」の由来 ==