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=== 古代 ===
[[ファイル:Yoshitoshi Nihon-ryakushi Susanoo-no-mikoto.jpg|right|thumb|300px|「ヤマタノオロチ」『日本略史 素戔嗚尊』:[[月岡芳年]]]]
文献や言い伝えとしての妖怪が見える時代である。『[[古事記]]』、『[[日本書紀]]』といった朝廷による歴史書や『[[風土記]]』等で太古からの伝承を説明している文の中で「[[鬼]]」や「[[大蛇]]」、怪奇現象に関する記述が既に見える<ref name="小松">{{Harvnb|小松和彦|2011|p=20}}</ref>。また、[[平安時代]]には『[[日本現報善悪霊異記|日本霊異記]]』や『[[今昔物語集]]』を初め、怪異や妖怪にまつわる説話の登場する説話集なども編纂されており、[[百鬼夜行]]に関する記述等も見られる<ref>『今昔物語集』巻14の42「尊勝陀羅尼の験力によりて鬼の難を遁るる事」</ref>。これら文献中の多くの妖怪たちは後の時代に引き継がれていく<ref>{{Harvnb|小松和彦|2011|p=78}}</ref>。しかしながら、これらの妖怪的存在がどのような姿をしていたかが多くの言葉で語られてはいはいるものの、姿かたちを描いた絵画が付されているというわけではない<ref name="小松"/>。平安時代後期において『[[地獄草紙]]』などの仏教絵画に鬼などの表現が見られるものの、視覚的表現として妖怪が具体的に姿を現すのは中世、鎌倉時代に入って以降である<ref>{{Harvnb|小松|2011|p=21}}</ref>。
 
[[ヤマタノオロチ]]のように元々は祀られる土地の神であったが、[[スサノオ]]に退治され妖怪に転落した存在や<ref>{{Harvnb|小松和彦|2015|p=46}}</ref>、弥三郎という盗賊を退治したところ彼の怨霊が毒蛇となって田の水を枯らしたので祀り上げて「井の明神」としたとあるように神に転じた存在<ref>{{Harvnb|小松和彦|2015|p=213}}</ref>、河童や犬神のようにある地域では神として祀られていても別の地域では妖怪とされている存在を例に取れるように、日本人の神に対する価値観の中で、妖怪と神の間を行き来している存在が見られる。
 
=== 中世 ===
[[ファイル:Hyakki-Yagyo-Emaki Tsukumogami 1.jpg|right|thumb|300px|『百鬼夜行絵巻』 作者不詳(室町時代)]]
書物としての妖怪から、[[絵巻|絵巻物]]や[[御伽草子]]などの物語文学などにより具体的な姿を持った妖怪たちが続々と登場する時代である。寺社縁起として製作される絵巻があるいっぽう、信仰の対象としてではなく御伽草子などのように娯楽としての面の強く製作された絵巻もあり、妖怪たちも徐々に娯楽の対象になり始めていく。例えば妖怪退治の物語は妖怪に対する人間世界の優位性を強調しているといえる<ref name="小松 中世">{{Harvnb|小松和彦|2011|p=21-22}}</ref>。
 
* 『[[酒呑童子#妖怪としての酒呑童子|大江山酒天童子絵巻物]]』(鬼)、『是害坊絵巻』(天狗)、『[[藤原秀郷#百足退治伝説|俵藤太絵巻]]』(大蛇、百足)、『[[土蜘蛛草紙|土蜘蛛草紙絵巻]]』(土蜘蛛)、『[[安珍・清姫伝説|道成寺縁起絵巻]]』(大蛇)といった従来からの主要な妖怪にまつわる絵巻
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*[[大正]]3年(1914年) - [[白井光太郎]]『植物妖異考』を出版。白井は植物病理学者・本草学者の観点から植物の妖怪についての文献・事蹟を集成した。
 
[[明治維新]]後に急進した欧化政策を受け、西洋の物語も原書あるいは翻訳を通じて日本でも享受されるようになっていった。現在も[[古典落語]]として口演される『[[死神 (落語)|死神]]』に出て来る[[死神]]のおこなう動作や[[蝋燭]]を用いた表現などは、日本に古くから存在していたと見なされることもあるが、落語家の[[三遊亭圓朝#初代|三遊亭円朝]]が明治20年代頃に[[グリム童話]]の「死神の名付け親」あるいは[[イタリア]]の[[オペラ]]『[[:en:Crispino e la comare|クリスピーノと代母(コマーレ)]]』(1850年)などといったヨーロッパの死神の登場する話をもとに翻案した[[新作落語]]であるとされ、この噺の中でのイメージが巷に広まったことが知られている<ref>西本晃二『落語『死神』の世界』 青蛙房 2002年 289-290頁 ISBN=4-7905-0305-4</ref>。また、明治41年(1908年)に[[泉鏡花]]、[[登張竹風]]のふたりは[[ゲアハルト・ハウプトマン|ハウプトマン]]の[[戯曲]]『沈鐘』(1897年)を共訳しているが、鏡花は『沈鐘』に明確な影響を受け戯曲『[[夜叉ヶ池 (戯曲)|夜叉ヶ池]]』を執筆する<ref>[[泉鏡花]] 『夜叉ヶ池・天守物語』 [[岩波書店]]<[[岩波文庫]]> 134頁 1984年 ISBN=4-00-310273-8 [[澁澤龍彦]]「解説」</ref>など、このように西洋の物語に登場するイメージなどを日本の妖怪のストーリーなどに翻案した作品も明治以降には発生している。
 
その一方で{{誰範囲|date=2015年12月|日本の古典文化は排斥され、[[唄]]や[[踊り]]の伝承書が[[焚書]]された例もあり、そして科学的考察が至上とされ、妖怪もその他の迷信の類ともに、排斥される}}傾向にあったが、江戸末期から[[昭和]]や[[平成]]に至るまで、{{誰範囲|date=2015年12月|その時代時代の[[民俗学者]]の著書の発行と[[民俗学]]による権威付けが}}、{{要出典範囲|date=2015年12月|妖怪という日本の民族文化の衰退の歯止めとして、一役買ったことは否めない}}であろう。