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'''秋山 光朝'''(あきやま みつとも)は、[[平安時代]]末期の[[武将]]。[[甲斐源氏]]・[[加賀美遠光]]の長男。[[秋山氏]]の祖。
 
秋山氏は[[甲斐源氏]]の一族で、名字は[[甲斐国]][[巨摩郡]]秋山村に光朝が居住して「秋山太郎」を名乗ったこと始まるとされる。父の[[加賀美遠光]]は[[源清光]]の三男であり、甲斐の地より朝廷に馬を納める[[駒牽]]の役で、嫡男の秋山光朝と次男[[小笠原長清]]を伴って度々上京していた。光朝は父[[加賀美遠光]]と共に王朝時代の公家の儀式・官職・法令・礼式・年中行事・復職・生活のしきたりを記した[[有職故実]]に精通しており、源氏でありながら平氏中心の平安時代末期において大きな信頼を得ており、光朝と弟の[[小笠原長清]]は京にて[[平清盛]]の嫡男[[平重盛]]の弟[[平知盛]]に仕えていた。その有能ぶりを[[平重盛]]が認め、自身の娘を光朝に嫁がせている。[[治承]]4年([[1180年]])[[4月 (旧暦)|4月]]、[[源頼朝]]挙兵後、弟の[[小笠原長清]]は巧妙に京を脱出し[[源義経]]の指揮下に加わったが平家の妻を娶り簡単に京から出られない光朝は鎌倉軍への合流が大幅に遅れてしまった。しかしながら[[源義経]]軍に加わり[[屋島の戦い]]、[[壇ノ浦の戦い]]に参加。西上遠征の途中、[[平重盛]]の娘て活躍妻に迎えした事が解っている。
[[源頼朝]]は戦勝で鎌倉に戻った弟の[[源義経]]を脅威に感じ後に追討令を出すが、同道していた秋山光朝に対しても平家の妻を娶っている事や参陣の遅れから[[木曽義仲]]と通じて謀反を企んでいたとも疑われ、弟の[[小笠原長清]]軍が兄秋山光朝の追討を受ける事になる。([[吾妻鏡]]より)
秋山光朝は現[[南アルプス市]]秋山(旧香西地区)の山城[[雨鳴城]](あまなりじょう)に籠り文治五年(1185年)鎌倉軍と対峙するが力尽き山腹で自刃する事になる。
秋山旧事記によれば、実際に[[一条忠頼]]と共に[[木曽義仲]]に気脈通じ頼朝に反旗を翻そうとしていた事が書かれています。
父、加賀美遠光の仕事[[有職故実]]の伝承は弟の[[小笠原長清]]が継ぐ事になり、現代の[[小笠原]]流として多方面の流儀として続いている。
加賀美家の家紋は三階菱ですが、これは高倉天皇の御代承安元年(1171年)御所の上に奇怪な光輪が現れて宮中が大騒ぎとなった時。文武両道の達人として加賀美遠光に勅命が下り源氏の秘儀「鳴弦の術」を持って退治したとされ、高倉天皇は喜び宮中の清涼殿に祀っていた不動明王像と近江滋賀郡の地を賜り、「王」の字を形どった「三階菱」を使う事が許されたとされる。この家紋は嫡男の秋山光朝が亡き後は弟の[[小笠原長清]]が家紋として使用している。
秋山光朝が切腹した折に、実は三人の子供がいたが桓武平家の流れを組む甲斐小松家(薩摩藩[[小松帯刀]]の祖)一族が三人の子らを自身の子で農民であると偽り保護したとされ、「[[承久の乱]]」において平家出身の[[北条政子]]に呼応し、三人の子が参陣したとの記録が[[加賀美山法然寺]]に残されている。
以後、秋山家の家紋は小笠原家の[[三階菱]]に対し[[丸ニ三階菱]]を使用している。
 
平家滅亡後、鎌倉に[[加賀美氏|加賀美一党]]の館を構え頼朝警護の役職に就くも、甲斐源氏の勢力拡大を恐れる頼朝に疎まれ謀反の罪で鎌倉において処刑された。
 
== 関連項目 ==
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{{DEFAULTSORT:あきやま みつとも}}
[[Category:平安時代・鎌倉時代の武士]]
[[Category:秋山氏|みつとも]]
[[Category:1185年没]]