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など<ref>[http://ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/3258/1/KH_027_3_001.pdf 国立民族学博物館研究報告27(3): 395–481 (2003) 山中由里子 「アラブ・ペルシア文学におけるアレクサンドロス大王の神聖化」]</ref>
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1.このクルアーンはアッラーを讃えるものである。これは、アッラーがそのしもべに下された違うことなき啓典である。
 
2.この啓典は、これに書かれていることを、正しく読み解き、それにまっすぐに従う者、アッラーの御許よりの痛烈な処罰を警告され悔い改める者、また正しい行いに励む信者は、良い報奨を得るという吉報である。
 
3.彼らは永遠にその中に住むであろう。
 
4.また、「アッラーは一人の御子を持たれます。」と語る者たちへの警告でもある。
 
5.彼らは、御子の救いを口にし、『信じる者は救われる』などと語る。自らをその御子の信徒の如く語る。しかし、これについて何か特別な知識を持っているわけではない。また、信じるとは何なのかの知識すら持っていない。彼らは知識のない者を祖先に持つ、知識を持たない者たちに他ならない。だから、彼らの口をついて出る言葉は、由々しきものとなり、彼らは偽りを語る者となる。
 
6.ただし、あなたが彼らに強いてこのクルアーンへの帰順を求める必要はなく、彼らの所業について苦悩する必要もない。このようなことはあなたにとって、自殺行為となろう。
 
7.アッラーは、地にさまざまな教えを送られる。人はそれにより自身を飾るが、これは、彼らの中のどの教えに属する者が、最も優れた行いをするのかを試みられるためである。
 
8.全ての教えは、それを受ける人があるから、生きるものとなる。もし、アッラーがその根本となっている深遠を語られたのならば、誰もこれを受けることが出来ない。それは真実であっても、命のない乾いた土となってしまうのだ。
 
9.これを洞窟の仲間たちとその碑文で譬えよう。これが意味することを、あなたが理解できたのならば、あなたはアッラーの驚くべき印に驚嘆するであろう。
 
10.青年たちが洞窟の中に逃れたと思いなさい。彼らはアッラーにこう祈った。「主よ、あなたの御許からの慈悲を請います。わたしたちに正しい道をお授けください。」
 
11.アッラーは、その洞窟の中に彼らを入れたまま、何年もの間、お応えにならなかった。
 
12.その後、アッラーは彼らを呼び起こされた。彼らは、二つのグループであった。彼らの内、いずれのグループが、その洞窟に留まるべき期間を見定めることが出来るのかを知ろうとされたのだ。
 
13.彼らは両方とも、主を信じる青年たちであった。これゆえ、アッラーは彼らをなお一層導かれたのだ。これが真理である。
 
14.アッラーは彼らの心を引き立てられた。彼らは起き上がったとき、口々にこう語った。「わたしたちの主は、天と地の主であられる。わたしたちは彼を差し置いて他の如何なる神にも祈らない。もし、そのようなことをするならば、わたしたちは無法なことを口にすることとなる。」
 
15.彼らの同族の者たちは、世の権威や権力に引かれ、また、自己の欲望に引かれ、それらを神々として崇めたてていた。彼らは、その権威が実体なく、追えば逃げる蜃気楼のようなものであることを知り、これがアッラーに対する捏造であることを知り、甚だしい不義であることを知ったのだ。
 
16.彼らは、そのようなものから逃れるために洞窟に逃げ込んでいたのだ。彼らが信じたのは主の慈悲であり、主が必ず事態を安穏に処理されるという確信であった。
 
17.主の懲罰が及ぶ時、洞窟の中では、太陽が昇る時、その光が右の方にそれるように、そこには懲罰は及ばなかった。また、太陽が沈む時も、洞窟の中の広場にいた彼らを過ぎて左の方にそれて去るように、そこには懲罰が及ばなかった。これはアッラーの印である。アッラーが導かれる者は、このように導かれる。だが、アッラーが迷うに任せられれば、全ては白日の下に曝され、あなたを覆うものは誰一人見出せない。
 
18.アッラーは彼らに『目を覚ましていなさい。』と命じられた。しかし、彼らは眠り、寝返りをうち、太陽の光、すなわちその懲罰を受けることとなってしまった。また、彼らの中で犬に譬えられる者たちは、両足を洞窟の入り口に伸ばし、その懲罰を浴びることとなってしまった。
 
19.このように、洞窟に逃れた者全てが、その懲罰を免れるわけではないが、なお多くの者たちは、その懲罰を免れた。さて、アッラーの懲罰が一巡する間を一日とすれば、彼らがそこに逃れたのは、一日か一日足らずに過ぎない。アッラーは、彼らがそこに滞留していたことをご存知であられた。アッラーは彼らの内から一人を選び出し、その者に、「さあ、この銭を持って町に行き、彼らのために最も清い食べ物を持っている者を見つけ出し、彼から食料を買い求めなさい。」と命じられた。そして、「彼らの事は誰にも気づかせてはならない。
 
20.もし、町のものたちが、彼らの事を知れば、町のものたちは彼らを石打ちにするか、彼らに、町のものたちの如く考えることを強制するようになるからである。そうなれば、彼らにはもはや、懲罰を避ける術はなくなる。」
 
21.しかし、町のものたちは彼らの存在を知り、彼らを洞窟から追い出した。彼らは町のものたちの教えに強制的に従わされてしまったのだ。さて、次に太陽が昇ればどうなるか。これが最後の審判の時であり、その時、彼らには、その避けどころとなるものは何もない。人々は、これを聞き、このように考えた。「ならば、我々の上に日の光(懲罰)をさえぎる建物を建てよう。主は、我々が真実、どのように思っているのか知っておられる。」彼らの中に全てを牛耳っている者がいて「我々が、我々の上にマスジドを建立しよう。」と語った。
 
22.彼らは、そこに入るべき者を彼ら自身で選ぶ。ある者は「三人目までは入るべき者で、四人目に来た者は犬です。」と語る。また憶測で、「5人は良いが、6人目は犬です。」また「7人は良いが8番目は犬です。」と語る。このようにして、人は他人の正邪を判定する。果たして、そのマスジドを主が避けどころとお認めになられるだろうか。人がいくらそのようなものを定めたとしても、アッラーが『崩れ去れ』と一声おかけになられれば、簡単に崩れ去ることを彼らは知らないのであろうか。だから、このように語るのだ。「わたしの主は、その数を最も良く知っておられる。懲罰を避けることが出来るものは、極小数に過ぎない。」と。これが、あなたに《アッラーは一人の御子を持たれます。》と語る者たちへ「クルアーンへの帰順を求めるな、彼らについて苦悩するな。」と言う理由である。あなた方に直接関わることない限り、あなた方は彼らについて議論してはならない。また、あなた方はかれらについて、誰かに問いかけるべきではない。
 
23.これは、他のものごとに対しても同じである。あなたは《必ずこのようになる》と断言してはならない。あなたがそのようにするのではないからである。
 
24.だから、あなたは《アッラーがお好みになられるならば、このようになるでしょう。》と語りなさい。もし、あなたが約束を忘れたならば、《わたしの主は、これよりも正しい道に近づくように御導き下さるでしょう》と語りなさい。
 
25.さて、実際の話に戻そう。彼らが実際にこの洞窟に滞在した・・・すなわち、主の懲罰から逃れる避けどころを得ていた期間は、3百と9年であった。
 
26.彼らは、これほどの期間、アッラーの懲罰からの避けどころとなっていたのだ。アッラーは、彼らのことをご存知であられる。幽玄界のことはアッラーに属し、アッラー御自身が彼らにそれを提供されたから、彼らは避けどころを得ていたのだ。今、彼らの末裔がいろいろなことを語っているが、彼らにとってもアッラー以外の保護者はなく、アッラーの大権に参与できるものは何もない。
 
27.あなたに啓示された、主の啓典を読み聞かせなさい。誰もアッラーの御言葉を変えることが出来る者はいない。また、あなた自身にとってもアッラーの外に、如何なる避難所も探すことは出来ないのである。
 
28.あなたはあなた自身を堅く保ちなさい。主の裁きが及ぶ時も、主の裁きが過ぎ去った後も、主の慈悲を求めなさい。現世の生活の栄華を望み、アッラーからあなたの目を逸らせるものとなってはならない。いい加減な心でアッラーを念じる者、また私欲に従って自分のことに法を超える者に近づいてはならない。
 
29.真理は人から来るのではなく、あなた方の主から来るのである。だから誰でも望みのまま信仰させ、また拒否させなさい。逆に、不義は主から来るのではなく、人から来るのである。だから、アッラーは不義者のために火を準備されておられる。その火は彼らを取り囲み彼らを覆う。もし、彼らが軽減を求めて叫ぶならば、彼らの顔を焼く、溶けた黄銅のような水が与えられよう。何と悪い飲み物、何と悪い臥所であることよ。
 
30.だから、あなたはイブラーヒームの如き純粋な信仰を持ちなさい。そして、善行に励みなさい。そうすれば、アッラーはあなたのたった一つの善事に対しても報奨を下さるのだから。
 
31.その報奨はアドンの園である。川が下を流れ、黄金の腕輪で身を飾り、美しい緑の絹の長い衣や、厚い錦をまとい、高座にゆったりと身を託す。何と幸福な恵み。何と善い臥所よ。
 
32.一つの比喩を語ろう。あるところに一人の長者がいた。彼は、アデンの園に匹敵するような広大な二つのブドウ園を持っていた。そのブドウ園の周りはナツメヤシで囲われ、両園の間は広大な畑地が広がっていた。
 
33.二つの園は、それぞれ果実を結び、少しの不作もなかった。両園を貫く一つの川があったからである。
 
34.彼の収穫は豊かであり、彼はそれを誇り友にこのように語っていた。「わたしは富に於いて、あなたより遥かに勝っている。また、人の数でも、あなたよりも遥かに多い。見てごらん。ここは、まさにクルアーンに描かれているアデンの園ではないか。ここの持ち主であるわたしは誰か。
 
35.だから、わたしはこのように言おう。『ここが荒廃する事は有り得ない。』と。
 
36.多くの者たちは審判を恐れる。しかし、ここはどこか。まさにアデンの園であり、わたしがここの持ち主なのだ。わたしを裁ける者は誰か。わたししかいないではないか。仮にわたしが裁かれたとしても、わたしはわたしにこれ以上の広大な良いところを見出すであろう。」
 
37.その友は、このように語った。「あなたは土から創られたもの、一精滴から起こされたものに過ぎないではないか。あなた自身が被造物である事に気づかないのか。
 
38.あなたを創造された方がいらっしゃる。これがアッラー。あなたは自分自身を、主の位置に配している。しかし、あなた自身が被造物である事も明白。
 
39.この園も、あなたがアッラーから一時的にお預かりしているだけのものに過ぎない。だから、あなたはこの園についても、『すべてはアッラーの御心のまま、わたしには何一つ力はありません。』と語るべきなのだ。あなたは、富や子女に於いて、わたしに勝ると自慢する。しかし、このようなものは一時のもの。あなたが何も持たなかったとしても、なおこのように語るべきなのだ。
 
40.あなたは、『これ以上のものはない。』と自慢するが、主は、あなたの園に優るものをわたしに賜るかも知れない。また、あなたは、あなたの園をアデンの園と言うが、天から災害が下され、何もない場所とされない保障は何一つない。
 
41.あるいは、園内の水が干上がり砂漠となり、跡形もなくなるかも知れない。」
 
42.はたして彼の果実は全滅し、ぶどう棚も崩れ落ち、完全に廃墟と化した。彼の手に残ったのは、それに費やした労苦のみとなる。彼は何が間違っていたのか、その時、気づく。自分自身をアッラーと同位の者と人々に見せるためにその園を造営し、その完成により、自身をアッラーに匹敵する者とした事がすべての原因なのだと。
 
43.彼を救える者はアッラーの外誰もなく、自分をアッラーの如く装ったが、自分で自分を助ける事も出来なかった。
 
44.人は、権威や権力を得て、彼のように思うものなのだ。類まれな高位に着き《わたしの権威はアッラーを凌駕する》と語る。また、武力を誇示し、《わたしの力はアッラーに勝る》としたいものである。しかし、真のアッラーがその御手を伸ばされれば、人の高位にある者も、地獄の獄卒の前に並ばされる。人が如何に武力を誇示しようとも、そのようなものでは幽玄界に傷一つ付ける事すら出来ない。かえって、それを使う事により、自分自身を損なうだけである。真の救いは、真のアッラーの御許にある。アッラーこそは、最も優れた報奨の与え主であられる。
 
45.この世の生活は、アッラーが天から降らされる雨により茂る大地の草木のようなもの。いかに、草木が力あるように語り、生い茂ったとしても、アッラーが雨を降らされる事を止めれば、風に吹き散らされた乾いた株の根となる。これが、アッラーと草木の力の差である。
 
46.富や子女は、この草木の花の如きもの。この世の生活の飾りである。アッラーが雨を止められれば、すべてはなくなる。だが、善行はアッラーの許に記憶され、永遠に残る。主は、善行により報奨を定められ、人に希望を与えられる。
 
47.アッラーは山を移させられる。山とは、多くの者たちがここに信仰を置けば大丈夫と考える対象である。たとえば、ユダヤ人は律法を山とし、キリスト教徒は福音を山とし、イスラームはクルアーンを山とする。あなた方はその日、大地が平らになった事を悟るであろう。アッラーはこのようにすべてを招集され、何も残される事はない。
 
48.山々は列をなして、主の御前の所定の位置に着かされる。アッラーは、山々に対してこのように語られる。「あなた方は、わたしが最初に定めた通り、今、わたしの許に来た。あなた方は《我々は決して裁かれる事はない》と思い、思い上がっていたのだが、わたしがあなた方を召したのだ。」
 
49.これらの山々は、神の名を用い、イーサーの名を用い、アッラーの名を用い、また、それぞれの信仰の対象者の名により、数々の忌むべき事を行ってきたのである。その行いを記録した書冊が彼らの前に並べられる。彼らは彼ら自身が犯罪者として裁かれるのを恐れ、このように語る「ああ、情けない。この書冊には、細大漏らすことなく数え立ててあるではないか。」このような山々も、アッラーの御前に於いては、何一つ力がなく、裁かれるものの一つでしかない。あなたの主は、彼らすらも不当に扱われない。
 
50.アッラーは天使たちに対して「アーダムにサジダしなさい。」と語られた。天使たちはイブリースを除いてサジダした。イブリースはジンの仲間で、主の命令に背くものである。アッラーはこう仰せられる。「山々よ、あなた方はアーダムに対してサジダしているのか。いや、アーダムにサジダを強要しているではないか。あなた方はわたしの名を使うが、実際はわたしを差し置いて、イブリースやイブリースの眷属に従うものである。それなのに、イブリースを追い出せ、滅ぼせと叫ぶ。わたしに対しても不義の徒であり、イブリースに対しても不義の徒でしかない。不義の徒に汝らのように、すべてに対して不義の徒となる。正義を不義と置き換えたのであるから。」
 
51.人は、自分の信じる教えを《この教えは絶対だ》としたいものである。人よ、よくよく考えてみよ。アッラーが天と地を創造された時、その教えは既にあったのか。アッラーがその教えが創造された時、その教えによりその教えを創造されたのか。いや、天と地を創造した時にはなかったものであり、その教えが創られた根本はアッラー御自身であられ、その教えではない。では、アッラーがその教えを定められ、人々に《このようにしなさい》と命じられたのか。いや、違う。もし、そうであるならば、その教えは、アッラーに反して、人々にサジダを強要する事は出来ないのだ。結局、それを作り上げたのは人でありアッラーではない。このような教えは、アッラーの被造物である人により創られた被造物の被造物。どうして、このようなものが正義であろうか。
 
52.アッラーは、このような山々に語られる。「あなた方が、わたしの位置に配していたものを呼びなさい。」と。このような山々は、それに応じて、神やイエス・キリストやアッラーなどを呼び出そうとするが、それに応えて出てくる者はいない。アッラーは彼らの間に仕切りを設けられる。すなわち、ユダヤ教と言う山は、律法によって裁かれ、キリスト教と言う山は、福音によって裁かれ、イスラム教と言う山は、クルアーンに従って裁かれ、仏教と言う山は仏典により裁かれる。
 
53.罪人たちよ、犯罪者たちよ、あなた方が拠所としていた教えも、このように裁かれるのである。あなた方は何に救いを求めるのか。あなた方は火獄の淵に立たされ、そこから逃れる術のない事を悟る。
 
54.このクルアーンは、アッラーが人の為に授けられたものである。このなかで数々の譬えを引き、例を引き、詳しく語られているのだ。にもかかわらず、人は論争に明け暮れる。人が論争し、その論争に勝ったとしても、それが真実であると言う証拠はどこにも無いにもかかわらず。
 
55.人は、他の者たちに信仰の強制を行う。しかし、アッラーはどの信仰を選ぶのかを、人一人ひとりに任せられる。イブラーヒームの如き純粋な信仰を持つのも自由、形だけの信仰を持ちイブリースに従うのも自由、信仰の強制を行う信仰を持つ事も自由。どれを選ぶかによって、アッラーはあるいは報奨を授けられ、あるいは懲罰を下されて、その者を導かれるのである。もし、あなた自身が誤った信仰を持っていると気づいたならば、悔い改めて、主に赦しを請えばよいだけである。もし、そうしないで、気づいた後に悔い改めなければ、あなたの周りに昔の者が被ったような事が起こるか、更なる懲罰にあなたが晒される。
 
56.使徒たちは、吉報を伝達するためか、警告を与えるために遣わされる。不信心なものは、これ以外の目的で使徒の話をする。つまり、彼らが捏造した嘘を使徒の名により、さも正しい事のように他の人に伝えるためである。彼らは真理を退けるために論争を行い、使徒がもたらしたアッラーの印や警告を軽蔑の笑みを以て受け取る。
 
57.おおよそ、主の印に気づいた者が、そこから背き去り、自分の手で行ってきた行為を忘れるよりも、甚だしい不義はない。アッラーは、このような者の心に覆いをかけられるので、彼らは自分がそのような事をしている事すら理解出来なくなる。また、アッラーはこのような者の耳も鈍くされるので、彼らは他の者の忠告にも耳を貸さない。彼らは、すべての不義に勝る不義ゆえに、悪しき事に、悪しき事が重なるようになる。彼らの道程は火獄へと続く。
 
58.だが、アッラーは彼らをお見捨てになられたわけではない。この時、彼らに下されるのは、彼らの行為による最終的な懲罰ではなく、彼らの気づきのためのものである。アッラーは彼らが悔い改めるのを待っておられるのだ。彼らは人が定めた宗教に従う事により、それを避けられると考えているが、彼らのための避けどころは、真のアッラーの許にしかない。
 
59.アッラーがその基を定められたものは山であり、人がその基を定めたものは、町々であり村々である。たとえば、イスラームと言う山にも、数々の分派がある。この分派は人が定めた町村に他ならない。人は、その町村ごとに掟を定め、その掟を守れと人々に命じる。この掟が、アッラーの御心に合わなければ、そこは滅びに渡される。アッラーはその町村に使徒を送られ、彼らが主の印を拒否するかどうかを見定められる。彼らがそれを拒否し、すべての不義に勝る不義者である事を見定められても、なお、彼らには滅びに至るまでに、悔い改める時を設けられる。
 
60.すべてのものの源は一つである。しかし、人には律法と福音のそれぞれが、その源の一部である事はわからない。そして、クルアーンも、同じ源から出ているのだが、これも同じ源から出ている事も分からない。二人の人があれば、その二人は信じる事も、行動も違う。人の心の広がりを《海》として示し、そこを自由に動けるものを《魚》と呼ぶ。ムーサーはその従者にこう語った。「わたしは、わたしの海と、あなたの海、二つの海が会うところに行きつくまでは、何年かかってもそれを探し求めよう。」
 
61.しかし、彼らが二つの海が出会う場所にたどり着いた時、彼らの魚の事を忘れていたので、それは海に路をとり、逃げうせてしまった。人は、理論では自分の心の広がりと、他の人の心の広がりが同じである事を知る事ができるが、そこを自由に動く事は出来ないものなのだ。
 
62.彼ら両人がそこを過ぎ去った時、ムーサーは従者にこう語った。「わたしたちの朝食を出しなさい(わたしたちは、これをどのように悟れば良いのだろうか)。わたしたちは、この旅で本当に疲れた(人の心の共通点を見付けても、そこをどのように動けばよいのかわからない)。」
 
63.彼は答えて言った。「わたしたちがこの岩(人の心の共通点)で休んでいる時、わたしはなぜここを探そうとしたのか、その魚(目的)をすっかり忘れていました(目的を忘れ、形だけを追い求めた)。これについて、告げる事を忘れさせたのは、悪魔に違いありません。人とは不思議なものです。同じような心の広がりがあっても、そこを自由に動く事ができないのですから。」
 
64.ムーサーは、こう語った。「わたしたちが探し求めていたのは、結局、心の内を自由に動く事ができる魚であったのか。」彼らは、たどった道程を引き返した。
 
65.それから、彼らはヒドル(アッラーのしもべ)に会った。アッラーは彼に慈悲を施し、また、直接、知識を教えられていたのだ。
 
66.ムーサーは彼に「あなたに師事させてください。あなたが授かっている正しい知識をわたしにお教えください。」と語った。
 
67.彼は言った。「あなたは、わたしと一緒には到底耐えられないであろう。
 
68.あなたの分からない事について、どうして、あなたは耐えられようか。」
 
69.ムーサーは答えて言った。「もし、アッラーがお好みになられるのならば、わたしがよく忍び、またどんな事にもあなたに背かない事が分かりましょう。」
 
70.彼は言った。「もし、わたしに師事するならば、わたしがあなたに語るまでは、何事についても、わたしに尋ねてはならない。」
 
71.二人が出発して船(律法)に乗り込むと、彼はその船に穴をあけた。ムーサーは彼にこう語った。「あなたがそれに穴をあけたのは、人々を溺れさせるためですか。あなたは嘆かわしい事をなさいました。」
 
72.彼は言った。「わたしはあなたに、わたしと一緒では耐えられないと告げなかったか。」
 
73.ムーサーは言った。「わたしが忘れた事を責めないでください。また、事を難しくして悩ませないでください。」
 
74.それから二人は歩き出して、一人の男の子(イーサー)に出会った。すると彼は、これを殺してしまった。ムーサーは言った。「あなたは人を殺したわけでもなく、何等かの罪を犯したわけでもない無実の人を殺してしまった。あなたは、ほんとうにひどい事をされました。」
 
75.彼は答えていった。「わたしはあなたに、わたしと一緒では耐えられないと告げなかったか。」
 
76.ムーサーは言った。「今後、わたしがあなたに尋ねるならば、わたしを道連れにしないでください。わたしは既に、二度も、あなたから御許し得ているのです。」
 
77.それから、二人は旅を続けて、ある町に至った。彼らはそこの住人に食糧を求めたが、彼らは二人を歓待する事を拒否した。その時二人は、まさに倒れようとしている壁(信仰)を見付けた。彼はそれを直した。ムーサーは言った。「もし望んだのならば、それに対してきっと報酬を得られたでしょう。」
 
78.彼は言った。「あなたはもはや、わたしと共に歩む事は出来ない。結局、あなたは、耐える事が出来なかったのだから。さて、あなたが耐えられなかった事について説明してみよう。」
 
79.「さて、船(律法)は、海で働く(人の心のために働く)貧乏人たち(悟りのない者たち)の持ち物であった。わたしが、それを役に立たないようにしたのは、彼らの背後に一人の王がいて、すべての船(定め)を強奪(自分の欲望のために使う)からであった。
 
80.男の子(イーサー)について言えば、彼の両親(イーサーを心に思い描く者)は信者である。しかし、彼の反抗と不信心(イーサーを神と崇める事によるアッラーに対する反抗と不信心)が、両親(イーサーを心に思い描く者)を虜にし、累を及ぼす事を恐れた。
 
81.だから、わたしは彼らがこのようなイーサーよりも優れた性質の、純粋でもっと孝行な子を両親のために授ける事を願ったのである。
 
82.あの壁(イブラーヒームの如き信仰)は町の二人の幼い孤児のもので、その下には、彼らに帰属する財宝が埋めてあり、父親は正しい者であった。主は、彼らが成人になってから、その財宝を掘り出す事を望まれたのだ。彼らは何も知らない者であり、彼らの持ち物は、あの壁だけなのだ。しかし、彼らはあの壁を守ってさえいれば、いずれ、その下にある財宝を手にする事ができる。この財宝とは主からの御恵みである。すべて、わたしが勝手に行った事ではなかったのだ。これが、あなたが耐えられなかった事の説明である。」人の心(海)は、ムーサーのように、個々の事柄の善悪などの判断を自分の心により行おうとする。これゆえ、自分に縛られて、その海を自由に渡る事は出来ない。それぞれの人が持つ海があわされば、その判断も人の数だけ増えていく。これゆえ、なお、そこを自由に泳ぐ魚を得る事は出来なくなる。人は魚を探すが如く、アッラーを海の中に探す。しかし、アッラーはそこにはいらっしゃらない。すべての海を集めても、アッラーには何一つ及ばない。
 
83.「この後、ズ・ル・カルナインの時が来る。わたしは、彼について、あなた方に物語を語ろう。
 
84.アッラーは、地上に彼をお定めになられた。すべての事を成就する基を彼に授けられたのだ。
 
85.そこで彼は、一つの道を辿った。
 
86.彼は、太陽(アッラーの懲罰)が、沼の泉(思考が湧き出るところ)に没する事を知った。その近くに一種族(人類)を見付けた。アッラーは彼に言われた。『ズ・ル・カルナインよ、彼らを懲らしめても良い。また親切に彼らを待遇しても良い。』
 
87.彼は言った。『誰であっても不義を行う者には、わたしたちは刑罰を加える。わたしたちは彼らを主の御許に帰らせ、主は、彼らに厳罰をお与えになられよう。
 
88.また、誰であっても、イブラーヒームのように純粋に信仰して、善行に勤めるならば、良い報奨を与えよう。わたしたちが命じる事は彼らには安易であろう。』
 
89.彼は、別の一つの道を辿った。
 
90.彼は、太陽(アッラーの懲罰)が、一種族(人類)に登り、アッラーが、彼らに何の避けどころも設けないのを知った。
 
91.彼も、その通りにした。ズ・ル・カルナインはアッラーが何をなされようとするのか知り尽くしていたのだ。
 
92.それから彼は、更に別の一つの道を辿った。
 
93.彼は二つの山の間(アッラーが定められた二つの教えの間)に来た。その麓にいたのは、ほとんど言葉を知らない一種族(人類)であった(アッラーの語られる事を理解できない者たち)。
 
94.彼らは言った。『ズ・ル・カルナインよ、ヤァジュージュとマァジュージュ(二つの山の住人=つまり、それぞれの教え)が、この国で悪を働いています。わたしたちは税を納めますから、防壁を築いてくださいませんか。』
 
95.彼は言った。『主がわたしに授けられたものは、彼らよりも優れている。あなた方も力を出しなさい。そうするならば、わたしはあなた方と彼らとの間の防壁となろう。
 
96.鉄の塊をわたしの所に持って来なさい。』やがて、二つの山の間の空地がそれで満たされた。彼は語った。『吹け、それが火となるまで。』彼は言った。『溶けた銅を持って来てそれに注ぎなさい。』
 
97.このようにして、彼らの間に火の池の広大な防壁が出来た。誰もその上に上る事も、その中を通る事も出来なくなった。人々は、山の姿を見る事は出来ても、誰もそこに上れなくなった。彼らの目前に火の池が広がっているからである。
 
98.彼は言った。『これは、主からの御慈悲である。あなた方はこれらが何を示すかわからないであろう。しかし、主は、これらすべてを人にわかるようにされよう。主の約束は真実である。』」
 
99.主は、その日、人々を互いに打ち寄せる波のように、なすがままにされる。その時、ラッパが吹かれ、アッラーは全てを一斉に集められる。
 
100.その日、アッラーは不信心な者の前に地獄を現される。彼らは地獄を目前に見る。
 
101.目が塞がれていた者は、アッラーより遠ざかり、これを聞く事も出来なかった。
 
102.アッラーは語られる。「信じない者たちよ、何も受けていないのに、さも権威あるように語る偽善者よ。汝らは、わたしを差し置いてわたしのしもべを保護出来るとでも考えているのか。わたしは、あなた方を地獄に招き、地獄で歓待しよう。」
 
103.《良い行動を行え》とは、あなた方が聞いて知るところである。しかし、多くの者は、これに聞き従いながら、なお失敗者となる。誰が一番の失敗者となるのか。
 
104.自分では良い事をしていると考えるが、現世の生活に於ける努力が、すべて間違った道に行ってしまうような者たちである。
 
105.なぜ、彼らはこのようになるのか。彼らは主の印も、主との会見も信じていないからである。彼らは自分の秤で善悪を量るからである。これゆえ、彼らがいくら善事を重ねても、彼らの行いは無駄となる。アッラーは、審判の日には、このような者たちの善事を善事と量られない。
 
106.彼は、その当然の報いとして地獄に送られる。彼が行ってきたのは形ばかりの信仰であり、その形ばかりの信仰を信仰として、イブラーヒームの如き純粋な信仰を拒否するからである。彼は、形ばかりの信仰を重んじ、明らかな主の印を拒否するからである。そして、この行動により、アッラーの使徒たちを嘲笑するからである。
 
107.真の信仰を持つ者、真の善事に励む者は、天国の楽園で歓待される。
 
108.彼らはそこに永遠に住む事となろう。彼らはそこから移る事を望まない。
 
109.ここに示すものは、主の御言葉のごく一部に過ぎない。主の御言葉をすべて書き記そうとするならば、海を墨となしても、主の御言葉が尽きぬ内に、海は必ず使い尽くされよう。更に、もう一つ海を補充したとしても、主のすべての御言葉を書き記すには足らない。
 
110.わたしはあなた方と同じ、唯の人間に過ぎない。あなた方とわたしの唯一の違いは、わたしは、《あなた方の神は唯一の神》と啓示を受けた事だけである。誰でも、主との会見を請い願うならば、主から見て正しい行いをしなければならない。主から見て正しいとは、主を奉る場合、何一つ彼と同位のものを配してはならないと言う事であり、アッラー以外の如何なるものをも崇拝してはならないと言う事である。
 
 
 
 
 
 
== 脚注・出典 ==