削除された内容 追加された内容
31行目:
 
=== 羽柴・豊臣の時代 ===
[[天正]]10年([[1582年]])6月の[[本能寺の変]]の後に行われた[[清洲会議]]では、[[明智光秀]][[征伐|討伐]]に功があった[[堀秀政]]に与えられ、秀政は翌年に入城した。これ以降は事実上、[[豊臣政権]]下の城となってゆく。堀秀政の留守中は弟の[[多賀秀種]]が城代を務めた。天正13年([[1585年]])には、[[転封]]となった堀家に替わって[[堀尾吉晴]]が入城。さらに、天正18年([[1590年]]。時期については異説あり)には[[五奉行]]の一人である[[石田三成]]が入城した。三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の[[天守]]が高くそびえたつほどの[[近世]]城郭を築き、当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり [[島清興|島の左近]]と佐和山の城」<ref>今井林太郎『石田三成』( 吉川弘文館〈人物叢書 新装版〉、1988年)92頁</ref>と言わしめた。ただし、三成は奉行の任を全うするために[[伏見城]]に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の[[石田正継|正継]]であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されている『甲子夜話』<ref>今井林太郎『石田三成』( 吉川弘文館〈人物叢書 新装版〉、1988年)213頁</ref>。
 
三成は[[関ヶ原の戦い]]に万が一敗北した場合を考え、佐和山城での再戦を意図していたとされる。