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[[ファイル:Tokyo race club.jpg|thumb|right|250px|東京競馬倶楽部時代の東京競馬場]]
[[ファイル:Tokyo Racecourse1940.jpg|thumb|right|250px|1940年の東京競馬場]]
東京競馬場の前身は[[目黒競馬場]]である。[[1907年]]([[明治]]40年)に現在の[[東京都]][[目黒区]]([[東京都道312号|目黒通り(都道312号)]]南側、[[東京都道317号環状六号線|山手通り(都道317号、環六)]]の西側、バス停「元競馬場」付近)に約65000坪の敷地面積の[[目黒競馬場]]が開設されたが、その後目黒競馬場周辺の宅地開発が進み、借地が大部分だった目黒競馬場は借地料の増加に加え、馬券発売による競馬人気で手狭になったにもかかわらず拡張の余地がなかったため移転を余儀なくされた。小金井や羽田、世田谷なども移転先候補地となったが、府中町(当時は町. 1954年に[[多磨村]]・[[西府村]]と合併)が競馬場誘致活動に力を入れ、地形もよかったので府中に決定し[[1933年]]([[昭和]]8年)[[11月8日]]東京競馬場は開設した<ref name="fuchu1974 587-611">[[#府中市1974|府中市1974]]、587-611頁。</ref>{{#tag:ref|目黒競馬場移転候補地としては府中のほか羽田の埋立地(地方競馬の羽田競馬場が出来た。現在の飛行場の一部)、小金井(現小金井カントリークラブのあたり)世田谷区用賀(今の馬事公苑),世田谷等々力、など十数か所が調べられた<ref name="fuchu1974 587">[[#府中市1974|府中市1974]]、587頁。</ref>。目黒競馬場では競馬会から町に年に税金代わりに27,700円が寄付されていたという。国へもほぼ同額が寄付されていた。当時の府中町の年間予算は6万円、税収は3万円余りだったので、競馬場から自治体への寄付金は魅力だった<ref name="fuchu1974 589">[[#府中市1974|府中市1974]]、589頁</ref>。また、競馬場予定地付近の農地は用排水に不便していたともいう<ref name="fuchu1974 604">[[#府中市1974|府中市1974]]、604頁。</ref>。このため府中町では競馬場の誘致を決めた。競馬場誘致は町議会では満場一致だったという<ref name="fuchu1974 589"/>。東京競馬倶楽部代理の三菱信託と町長以下の委員会によって用地買収は進む<ref name="fuchu1974 589-590">[[#府中市1974|府中市1974]]、589-590頁。</ref>[[井田是政]]など一族の墓を守る井田家などの抵抗もあったが、やがて競馬場は完成する<ref name="fuchu1974 594-608">[[#府中市1974|府中市1974]]、594-608頁。</ref>。しかし、府中町が期待した競馬場からの収入は、競馬法改正で国に召し上げられてしまっている。府中町ではたいへんにガッカリしたという<ref name="fuchu1974 611">[[#府中市1974|府中市1974]]、611頁。</ref>。|group="注"}}。10日後の[[11月18日]]に東京競馬場での初めての開催を行い、目黒競馬場は完全閉場となった([[目黒記念]]は目黒競馬場にちなんでいる)。
開場時の東京競馬場のレースは春・秋の2回開催で各季8日間の開催であった。手狭だった目黒競馬場が1場所8日間の開催で最高で観客8万人あまりだったが、移転して広大になった東京競馬場第一回開催では8日間で10万人を超えた。記念すべき東京競馬場の初開催は1933年(昭和8年)11月18-20,25-26,12月1-3日である<ref name="jra1968 132">[[#日本中央競馬会1968|日本中央競馬会1968]]、132頁。</ref>。東京優駿日本ダービーは第三回1934年(昭和9年)から東京競馬場で行われ、開設時の重賞競走としては帝室御賞典(今の天皇賞)や農林省賞典、目黒記念などが行われていた<ref name="jra1968 144">[[#日本中央競馬会1968|日本中央競馬会1968]]、144頁。</ref>。