「ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ」の版間の差分

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現在の[[バイエルン州]][[ランツフート]]に生まれる。[[1823年]]に[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]、翌年には[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]にて[[神学]]を学ぶ。ベルリン大学でヘーゲルの講義を聴き、影響を受ける。その後、哲学の研究に勤しみ、[[1828年]]には「統一的・普遍的・無限的理性について」にて[[博士]]号を取得、[[フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルク|エアランゲン大学]]の私講師に就任。
 
しかし、[[1830年]]に伝統的なキリスト教の批判を匿名で出版した『死および不死についての考察』が問題となり、当初は匿名で出版したものの<ref>{{Cite book|和書|author=ズィモン・ラヴィドヴィッツ|year=1983|title=ルードヴィヒ・フォイエルバッハの著と哲学 上|publisher=新地書房|pages=14p}}</ref>が、伝統的なキリスト教の批てしまいた部分が問題となり、これが原因で失職。以後は著述家として生計を立てる。[[1837年]]に[[陶磁器]]工場を経営する女性と結婚。工場経営にも生活の糧を求めた。
 
[[1839年]]には青年ヘーゲル派の機関誌『ハレ年報』において、『ヘーゲル哲学批判のために』を発表<ref>{{Cite book|和書|author=ズィモン・ラヴィドヴィッツ|year=1983|title=ルードヴィヒ・フォイエルバッハの哲学 上|publisher=新地書房|pages=82p}}</ref>。[[1841年]]には主著『キリスト教の本質』を刊行。たちまち、青年ヘーゲル派の人をはじめ、多くの若年の学者に歓迎される一方で、[[保守]]的な学者や神学者から激しい非難を受けた。
フォイエルバッハはかねてから、かつての師ヘーゲルの抽象的な精神・理念を主体として捉えて、その自己展開の過程によって歴史や自然・世界を見る考え方に疑問を抱いていた。これら抽象的な精神は元々[[人間]]の働きであるものなのに、ヘーゲル哲学では独立して考えられていると考え「人間の自己疎外」という表現で批判する。著述家になってからフォイエルバッハは、このヘーゲルの哲学批判を開始する。
 
また[[1843年]]には、『哲学改革のための暫定的テーゼ』『将来の哲学の根本命題』を刊行<ref>{{Cite book|和書|author=ズィモン・ラヴィドヴィッツ|year=1983|title=ルードヴィヒ・フォイエルバッハの哲学 上|publisher=新地書房|pages=135p}}</ref>。[[人間主義]]的唯物論の代表的な存在になる。ただ、[[1860年]]に妻の経営する工場が破綻、経済事情が一気に悪化する。その後[[1866年]]には『唯心論と唯物論』を発表するが、以後は病床に就き、貧困のうちに[[ニュルンベルク]]近郊のレッヒェンベルク (Rechenberg)で死去した。
[[1839年]]には青年ヘーゲル派の機関誌『ハレ年報』において、『ヘーゲル哲学批判のために』を発表。[[1841年]]には主著『キリスト教の本質』を刊行。たちまち、青年ヘーゲル派の人をはじめ、多くの若年の学者に歓迎される一方で、[[保守]]的な学者や神学者から激しい非難を受けた。
 
また[[1843年]]には、『哲学改革のための暫定的テーゼ』『将来の哲学の根本命題』を刊行。[[人間主義]]的唯物論の代表的な存在になる。ただ、[[1860年]]に妻の経営する工場が破綻、経済事情が一気に悪化する。その後[[1866年]]には『唯心論と唯物論』を発表するが、以後は病床に就き、貧困のうちに[[ニュルンベルク]]近郊のレッヒェンベルク (Rechenberg)で死去した。
 
[[1848年]]の[[1848年革命|3月革命]]には関心を示したが、基本的に生涯を通じてフォイエルバッハは、政治的・社会的な立場には関心がなかった。そのためマルクスら[[革命家]]、[[政治家]]と行動をともにすることはなかったが、マルクスらの[[唯物史観|史的唯物論]]への影響は大きい。その晩年には、[[アウグスト・ベーベル]]らの結成した[[マルクス主義]]政党・[[ドイツ社会主義労働者党]]に入党した。
 
== 思想 ==
フォイエルバッハはかねてから、かつての師ヘーゲルの抽象的な精神・理念を主体として捉えて、その自己展開の過程によって歴史や自然・世界を見る考え方に疑問を抱いていた。これら抽象的な精神は元々[[人間]]の働きであるものなのに、ヘーゲル哲学では独立して考えられていると考え「人間の自己疎外」という表現で批判する。著述家になってからフォイエルバッハは、このヘーゲルの哲学批判を開始する。
 
== 主な著作 ==
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*『将来の哲学の根本命題――他二篇』[[松村一人]]・[[和田楽]]訳、岩波文庫、1967年。
*『唯心論と唯物論』船山信一訳、岩波文庫、1977年。
 
 
== 参考文献 ==
<references/>
{{参照方法|section=1|date=2014年3月17日 (月) 15:00 (UTC)}}
* [[石塚正英]]・河上睦子・柴田隆行編『神の再読・自然の再読:いまなぜフォイエルバッハか』理想社、1995年、参照。
* フォイエルバッハの会編『フォイエルバッハ:自然・他者・歴史』理想社、2004年、参照。