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'''石川貞治'''(いしかわさだはる、[[1864年]]-[[1932年]])は、日本の[[教育者]]・[[文化人類学者]]・[[技師]]・[[実業家]]・[[官僚]]。
 
== 人物 ==
[[島根県]][[浜田市]]生まれ。[[1884年]][[札幌農学校]]入学。[[1888年]]同校卒業(7期)。卒業後、[[考古学]]や[[文化人類学]]の研究者として札幌農学校[[助教授]]に就任。[[1896年]][[拓殖務省]]技師に就任。その後、[[北海道庁]]にて[[鉱山]]・[[測量]]の[[技術者]]となる。同庁を[[退官]]後、[[北海道]]における[[金山]]・[[炭坑]]・[[油田]]の開発や経営を手掛ける。特に、[[鉱床]]開発では、[[手稲山]]が有名で、[[鉱業権]]を取得し、'''手稲鉱山'''と命名。その後、[[大津和多理]]、[[大町信]]、[[岡元輔]]、[[浅羽靖]]と共に、札幌農学校[[予科]]入学を目指す中等教育機関として北海英語学校中等部を創立。また、北海中学校・[[北海高等学校]]の創立にも大きく寄与した。技師としての立場から測量などを行い、[[地質学]]にも[[啓蒙]]。この後、[[旧制]]北海中学校の運営に携わりつつ、生涯研究を重ねた。