「五代友厚」の版間の差分

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[[慶応]]元年([[1865年]])、藩命により[[寺島宗則]]・[[森有礼]]らとともに[[薩摩藩遣英使節団]]として英国に出発、欧州各地を巡歴。[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]で[[シャルル・ド・モンブラン|モンブラン]]と貿易商社設立契約に調印、これは薩摩藩財政に大きく寄与するものとみなされたが、諸要因により失敗に終わる。しかし、この時の経験がのちの五代の経営手腕に大きな影響を与えることになる。
 
慶応2年([[1866年]])、御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一に握る会計係に就任。長崎の[[トーマス・ブレーク・グラバー|グラバー]]と合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めた。ここでいうドックというのは俗に[[小菅修船場跡|そろばんドック]]と呼ばれるもので現存している。慶応4年([[1868年]])、[[戊辰戦争]]が勃発し五代は[[西郷隆盛]]や[[大久保利通]]らとともに倒幕に活躍した。
 
その結果、[[明治]]元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となる。外国官権判事、[[大阪府]]権判事兼任として大阪に赴任し、[[堺事件]]、イギリス公使[[ハリー・パークス|パークス]]襲撃事件などの外交処理にあたった。また、大阪に造幣寮(現・[[造幣局 (日本)|造幣局]])を誘致。初代[[大阪税関]]長となり、大阪税関史の幕を開ける。