「ブリャンスク公国」の版間の差分

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1238年、モンゴルのルーシ侵攻によって[[フシチイシュ]]が破壊され、またフシチイシュ公[[ウラジーミル・スヴャトスラヴィチ (ノヴゴロド公)|ウラジーミル]]の血筋が途絶えた。その後、ブリャンスクを首都とし、[[チェルニゴフ]]、[[ノーウホロド=シーヴェルシクィイ|ノヴゴロド・セヴェルスキー]]、[[スタロドゥーブ]]、[[トルブチェフスク]](いずれもチェルニゴフ - セヴェルスキー圏の都市で、これらを首都とする公国が存在していた)を含む広大な地域を領するブリャンスク公国が成立した。ブリャンスク公国の初代ブリャンスク公はロマン[[:ru:Роман Михайлович Старый|(ru)]]であった。また、ブリャンスク公は慣例的に、[[チェルニゴフ公|チェルニゴフ大公]]の称号を冠していた。チェルニゴフ - セヴェルスキー圏の中では、[[オカ川]]上流のカラチェフ公国、ノヴォシリ公国、タルーサ公国、[[ポセミエ]]の[[クルスク公国]]、[[プチヴリ公国]]、[[ルィリスク公国]]のみがその支配権の外にあった。
 
13世紀末、ブリャンスク公国軍は[[ジョチ・ウルス]]軍、[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国|ガーリチ・ヴォルィーニ大公国]]軍と共に[[リトアニア大公国]]への遠征に参加した。14世紀はじめ、公国間の結婚によって、[[スモレンスク公]][[グレプ・ロスチスラヴィチ (スモレンスク公)|グレプ]]の子孫がブリャンスク公位を獲得した。1310年にジョチ・ウルスと結託してブリャンスク公スヴャトスラフ[[:ru:Святослав Глебович (князь брянский)|(ru)]]をジョチ・ウルスと共に破った[[ヴァシリー[[:ru:Василий Александрович・アレクサンドロヴィチ (князь брянскийブリャンスク公)|(ru)ヴァシリー]]は公位につき、さらにカラチェフ公国を占領した。
 
1356年から1359年にかけての騒乱期を経て、ブリャンスク公国は[[アルギルダス]]に制圧され、リトアニア大公国に従属した。騒乱期以後の統治はオレグ家出身のロマン[[:ru:Роман Михайлович (князь брянский)|(ru)]]に任された。しかし1370年に[[モスクワ大公国]]からの侵略を受けた後、アルギルダスは自身の子の[[ドミトリユス・アルギルダイティス|ドミトリユス]]にブリャンスク公国を預けた。ドミトリーは1379年もしくは1380年の冬まで、ブリャンスクと、チェルニゴフ、スタロドゥーブ、トルブチェフスクを領有した。また、モスクワ大公国の軍事的拡張に乗じ、モスクワ大公国の[[ドミートリー・ドンスコイ|ドミトリー・ドンスコイ]]に仕え、[[ペレスラヴリ・ザレスキー|ペレヤスラヴリ・ザレスキー]]を寄食地(コルムレニエ[[:ru:Кормление|(ru)]])として受領した。ブリャンスク軍は1380年の[[クリコヴォの戦い]]に参加した。