「益田孝」の版間の差分

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明治維新後は横浜の貿易商館に勤務、[[明治]]5年([[1872年]])に[[井上馨]]の勧めで[[大蔵省]]に入り、[[造幣権頭]]となり大阪へ。明治7年([[1874年]])には、英語力を買われ井上が設立した[[先収会社]]では東京本店頭取(副社長)に就任。[[明治]]9年([[1876年]])には[[中外商業新報|中外物価新報]]を創刊。同年、先収会社を改組して三井物産設立と共に同社の初代総轄(社長)に就任する。三井物産では綿糸、綿布、生糸、石炭、米など様々な物品を取扱い、明治後期には日本の貿易総額の2割ほどを占める大商社に育て上げた。
 
三井物産が設立されてからは、[[渋沢栄一]]と共に益田の幕府騎兵隊時代の同期生の[[矢野二郎]]([[商法講習所]]所長)を支援したため、物産は多くの[[一橋大学]]出身者が優勢を占めた。三井内部では、工業化路線を重視した[[中上川彦次郎]]に対して商業化路線を重視したとされている(但し、後述の[[日本コークス工業|三井鉱山]]の設立や[[團琢磨]]を重用したように工業化路線を軽視したわけではなかった)<ref>『メガバンク学閥人脈』(山口日太郎、新風社、2006年7月) P120、P126</ref>。さらに、三井財閥総帥であった中上川の死後実権を握ると、経営方針の中で、中上川により築き上げられた三井内の[[学校法人慶應義塾|慶應義塾]]出身者を中心とする[[学閥]]を排除することを表明し、中上川の後継者と目されていた[[朝吹英二]]を退任させ、三井財閥総帥には[[團琢磨]]を、[[三井銀行]]には[[早川千吉郎]]を充てた<ref>『メガバンク学閥人脈』(山口日太郎) P124</ref>。
 
また、[[工部省]]から[[三井三池炭鉱|三池炭鉱]]の払下げを受け、明治22年([[1889年]])に「三池炭鉱社」(後の三井鉱山)を設立、團を事務長に据えた。明治33年([[1900年]])に[[台湾製糖]]設立。[[大正]]2年([[1913年]])、辞任。