「柄谷行人」の版間の差分

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1986年にはフランス[[ポンピドゥー・センター]]で「[[前衛]]の日本」という大展覧会あわせて開催されたシンポジウムに[[蓮實重彦]]・[[浅田彰]]とともに出席した。
 
『探求Ⅱ』連載終了後の1988年から、数回の中断をはさみながらも、雑誌[http://www36.atwiki.jp/aabiblio/pages/54.html 『思潮』『批評空間』]を[[浅田彰]]とともに主宰(2002年まで)。浅田彰の国際的な編集能力に助けられ[[スラヴォイ・ジジェク]]を日本ではじめて本格的に紹介し特集をくむなどした。アドバイザリー・ボードと称されたメンバーには[[エドワード・サイード]]、[[フレドリック・ジェイムスソン]]、[[磯崎新]]、[[岩井克人]]、[[鈴木忠志]]らが名を連ねた。また若手批評家として[[東浩紀]]を生み出した。柄谷本人は90年代、この雑誌を中心に、それまでの構造と実存、あるいは個別性と単独性、一般性と普遍性の区別についての議論を、[[カント]]再吟味という形に移して継続した。
 
また1990年代は、[[ポストモダン建築]]・[[脱構築主義建築]]の代表的作家である[[磯崎新]]、[[ピーター・アイゼンマン]]、イグナシ・デ・ソラ・モラレスが主宰した建築と多領域の対話の場としての国際会議Any conference[http://www.ntticc.or.jp/Archive/2000/Any_Symposium/about_j.html](1991 - 2000)に参加。[[デザイン]]や建築といった分野でも脱領域的に読まれることとなる。ロサンジェルスで行われたANYの第1回目の会議の最初のパネルでは[[デリダ]]と一緒に壇上に並んだ。