「無伴奏ヴァイオリンソナタ (バルトーク)」の版間の差分

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当時[[白血病]]による闘病生活を送っていたものの、メニューインの訪問に喜んだバルトークは同年11月に行われた演奏会にも足を運んだ。ここで自身のヴァイオリン・ソナタ第1番と[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]の[[無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ#ソナタ第3番ハ長調 BWV1005|無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番]]を採り上げたメニューインの演奏を、バルトークは後日友人宛の手紙で激賞している。
 
その後、メニューインからの「無伴奏ヴァイオリンのための作品を書いてもらえないか」との依頼(メニューインは後年、バルトークの生涯を振り返るDVDの中でインタビューに答え「初めはヴァイオリン協奏曲を頼もうと思っていたが、彼の健康状態を考えてもう少し規模が小さいものにすることにした」と当時を回想している)を受けたバルトークは『[[管弦楽のための協奏曲 (バルトーク)|管弦楽のための協奏曲]]』の作曲をきっかけに創作意欲を復活させていたことから快諾、1943年の末から翌年の3月まで周囲が彼の健康を考えて転地させていた[[ノースカロライナ州]][[アシュビル_(ノースカロライナ州)|アシュビル]]で、バッハのソナタを思わせるようなこの作品を書き上げた。作曲期間については「わずか数週間」と作曲者自身が述べている。
 
初演に列席したバルトークは、ブダペスト時代にピアノの生徒だったアメリカ在住の友人、W.クリール夫人に同年12月17日付の手紙でこう報告している。