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{{基礎情報 軍人
[[画像:General Groener.jpg|thumb|グレーナー(撮影時期不明)]]
|氏名 = カール・エドゥアルト・ヴィルヘルム・グレーナー
'''ヴィルヘルム・グレーナー'''(Karl Eduard Wilhelm Groener, [[1867年]][[11月22日]]‐[[1939年]][[5月3日]])は、[[ドイツ]]の[[軍人]]・[[政治家]]。[[第一次世界大戦]]末期に軍部の実質的な指導者として[[ドイツ革命|革命]]政府に協力。[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]時代には国防相などを歴任した。
|各国語表記 = Karl Eduard Wilhelm Groener
|箱サイズ =
|生年月日 = [[1867年]][[11月22日]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1867|11|22|1939|5|3}}
|画像 = GeneralWilhelmGroener--nsillustratedwar03londuoft.jpeg
|画像サイズ =
|画像説明 = 1917年
|渾名 =
|生誕地 = {{DEU1871}}<br />[[File:Flagge Königreich Württemberg.svg|25px]] [[ヴュルテンベルク王国]] [[ルートヴィヒスブルク]]
|死没地 = {{DEU1935}} [[ポツダム]]
|所属組織 = [[File:War Ensign of Germany 1903-1918.svg|20px]] [[ドイツ軍|ドイツ帝国陸軍]]
|軍歴 = 1884年 - 1919年
|最終階級 = [[中将]]
|除隊後 = 政治家
|墓所 =
|署名 =
}}
'''カール・エドゥアルト・ヴィルヘルム・グレーナー'''(Karl Eduard Wilhelm Groener, [[1867年]][[11月22日]] - [[1939年]][[5月3日]])は、[[ドイツ]]の[[軍人]]・[[政治家]]。[[第一次世界大戦]]末期に軍部の実質的な指導者として[[ドイツ革命|革命]]政府に協力。[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]時代には国防相などを歴任した。
 
== 歴 ==
=== 軍人 ===
[[ファイルFile:Bundesarchiv Bild 183-1987-0225-500R10386, Wilhelm Groener mit Frau.jpg|thumb|left|200px|グレーナー内相(1932とヘレネ夫人(1917年)]]
ドイツ南西部・[[ヴュルテンベルク王国]]の[[ルートヴィヒスブルク]]に、連隊主計官の息子として生まれる。1884年の[[アビトゥーア]]合格後にヴュルテンベルク王国軍に入隊。任官試験に合格後陸軍大学で学び、[[1899年]]に[[プロイセン参謀本部|参謀本部]]に配属され、以後17年間を鉄道兵站の専門家として過ごすことになる。1912年に鉄道部長に就任し、1914年に始まる[[第一次世界大戦]]でも戦線移動に伴う膨大な鉄道輸送業務の責任者となった。[[1916年]]に戦時食糧庁に出向、同年11月1日に中将に昇進し、[[プロイセン王国]]軍事省次官及び副大臣に就任。この職責で[[国会 (ドイツ)|帝国議会]]に勤労奉仕法案を提出した。陸軍最高指導部と対立し、翌年8月に[[ウクライナ]]にある前線に左遷された。
 
[[1918年]]10月29日、ドイツの敗戦を目前にして[[エーリッヒ・ルーデンドルフ]]が参謀次長を辞すると後任に就任し、名目上の最高司令官である参謀総長[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]元帥の下で全ドイツ軍の撤収と復員の責任を負うことになる。11月に[[ドイツ革命]]が発生すると、彼は革命の[[ボルシェヴィキ]]化を防ぐため、[[フリードリヒ・エーベルト]]率いる穏健派の[[ドイツ社会民主党]](SPD)が主導する臨時人民代表委員会を支持した。11月10日にグレーナーはエーベルトと電話協議して、軍部はエーベルトの暫定政府に従うことを表明した。これによりエーベルト暫定首相は強力な後ろ盾を得て、政権が安定化することになる。軍部に多かった君主制の支持者はのちのちまでグレーナーを「裏切り者」と非難したが、彼は「革命という事態の中では、新しいドイツにプロイセンの伝統を活かす最善の道だった」と反論した。
 
=== 政治家 ===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1987-0225-500, Wilhelm Groener.jpg|thumb|グレーナー内相(1932年)]]
[[File:Bundesarchiv Bild 102-12969, Wilhelm Groener.jpg|thumb|200px|グレーナー内相(1932年)]]
[[1919]]6月の[[ヴェルサイユ条約]]締結もグレーナーは承認した。同月、ヒンデンブルクの辞任を受けて参謀総長に就任した。しかし9月にエーベルトの反対を押し切って軍を辞し、短い引退期間ののち政界に転身する。[[1920年]]6月に[[コンスタンティン・フェーレンバッハ|フェーレンバッハ]]内閣に無所属の交通大臣として初入閣してから、[[1923年]]まで四次の内閣でその職を務めた。[[1928年]]1月に[[ヴィルヘルム・マルクス]]内閣の[[オットー・ゲスラー]]国防相が秘密軍備計画で辞職に追い込まれると、その後任として再入閣した。
 
[[1931年]]には[[ハインリヒ・ブリューニング|ブリューニング]]内閣で内務大臣を兼任。しかし内相として[[1932年]]5月に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の[[突撃隊]]を禁止すると、ナチスの与党への取り込みを図る国防次官[[クルト・フォン・シュライヒャー]]と対立した。軍部に勢力を持ちヒンデンブルク大統領の側近でもあるシュライヒャーの要求には逆らえず国防相を辞任。直後のブリューニング内閣退陣で内相の座も失った。その後は公の場に出ることもなく、1939年に[[ポツダム]]郊外の自宅で死去した。
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*[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/GroenerWilhelm/ ドイツ歴史博物館] 経歴紹介(ドイツ語)
 
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{{先代次代|[[プロイセン参謀本部|ドイツ軍参謀総長]]|[[1919年]]|[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]|[[ハンス・フォン・ゼークト]]</br>(兵務局長)}}
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{{先代次代|[[ドイツ国]]交通相|[[1920年]] - [[1923年]]|[[グスタフ・バウアー]]|[[ルドルフ・エーザー]]}}
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{{先代次代|[[ドイツ国]]国防相|[[1928年]] - [[1932年]]|[[オットー・ゲスラー]]|[[クルト・フォン・シュライヒャー]]}}
| title = {{Flagicon|DEU1919}} 内務大臣
{{先代次代|[[ドイツ国]]内相|[[1931年]] - [[1932年]]|[[ヨーゼフ・ヴィルト]]|[[ヴィルヘルム・フライヘア・フォン・ガイル]]}}
| years = 1931年 - 1932年
| before = [[ヨーゼフ・ヴィルト]]
| after = [[ヴィルヘルム・フォン・ガイル]]
}}
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| title = {{Flagicon|DEU1919}} 国防大臣
| years = 1928年 - 1932年
| before = [[オットー・ゲスラー]]
| after = [[クルト・フォン・シュライヒャー]]
}}
{{Succession box
| title = {{Flagicon|DEU1919}} 交通大臣
| years = 1920年 - 1923年
| before = [[グスタフ・バウアー]]
| after = [[ルドルフ・エーザー]]
}}
{{s-mil}}
{{Succession box
| title = [[File:War Ensign of Germany 1903-1918.svg|25px]] [[プロイセン参謀本部|陸軍参謀総長]]
| years = 1919年
| before = [[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]
| after = [[ハンス・フォン・ゼークト]]
}}
{{End box}}
 
{{DEFAULTSORT:くれ ういるへるむ}}
[[Category:ドイツ帝国の軍人]]
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]