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[[File:Alej hrdinov Andrej Antonovic Grečko.jpg|thumb]]
'''アンドレイ・アントノヴィチ・グレチコ'''(
== 経歴 ==
[[第二次世界大戦]]では、1941年7月から第34騎兵師団長、1942年1月から第5騎兵軍団長、同年3月から南部戦線の作戦軍集団を指揮、4月から第12軍司令官、9月から第47軍司令官、10月から第18軍司令官。第18軍司令官在任時、同軍政治部長であったブレジネフとは戦友であり、その後、第4ウクライナ方面軍でもともに戦う。1943年1月から第56軍司令官、同年10月からヴォロネジ戦線(10月20日から第1ウクライナ戦線)副司令官、12月から第1親衛軍司令官。
終戦後、キエフ軍管区司令官。[[1953年]]から[[1957年]]まで[[ドイツ駐留ソ連軍|駐独ソ連軍]]総司令官。この間[[1955年]]に[[ソ連邦元帥]]となる。1957年11月、国防第一次官兼地上軍総司令官、[[1960年]]、国防第一次官兼[[ワルシャワ条約機構]]軍総司令官を経て、[[1967年]]3月、死去したマリノフスキー国防相の後任となる。[[1973年]]4月、[[ソ連共産党]]中央委員会総会で[[アンドレイ・グロムイコ]]外相とともに[[ソ連共産党政治局|政治局員]]に選出される。軍幹部の政治局入りは、元国防相の[[ゲオルギー・ジューコフ]][[元帥]]以来のことで、ソ連における軍の台頭として注目された。国防相在職中の1976年4月26日、急死した。
== パーソナル ==
1961年~1976年、ソ連共産党中央委員会委員(1952年から委員候補)。1973年~1976年、[[ソ連共産党政治局|ソ連共産党政治局員]]。第2期~第9期ソ連最高会議代議員。
[[レーニン勲章]]6個、赤旗勲章3個、一等スヴォーロフ勲章2個、一等クトゥーゾフ勲章2個、一等ボグダン・フメリニツキー勲章2個、二等スヴォーロフ勲章を受章。チェコスロバキア社会主義共和国英雄。
{{先代次代|[[ワルシャワ条約機構]]統合軍総司令官|[[1960年]] - [[1967年]]|[[イワン・コーネフ]]|[[イワン・ヤクボフスキー]]}}
{{先代次代|[[ソビエト連邦の国防相|ソ連国防相]]|[[1967年]] - [[1976年]]|[[ロディオン・マリノフスキー]]|[[ドミトリー・ウスチノフ]]}}
{{Normdaten}}
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[[Category:ソビエト連邦の政治家]]
[[Category:ソビエト連邦の軍人]]
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