「大阪市立東洋陶磁美術館」の版間の差分

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安宅産業は[[1977年]](昭和52年)10月1日に伊藤忠商事に吸収合併され、伊藤忠商事が引き受けない残存財産のうち、2000億円余りを[[住友銀行]](現[[三井住友銀行]])を含め16行で吸収合併前日に一斉償却し、残る約3000億円は受け皿会社'''エーシー産業'''を[[1977年]](昭和52年)4月に設立し、東洋陶磁コレクションも引き継がれた。しかし貴重で体系的な[[コレクション]]の散逸を惜しむ各方面の意見により、[[1980年]](昭和55年)3月に住銀頭取[[磯田一郎]]は公共機関に寄托することが最もふさわしいと判断し、[[大阪市]]への寄贈を決めた。大阪市の負担を回避するために、住友銀行を中心とした[[住友グループ]]21社の協力のもと、965件、約1000点の買い取り資金が[[1982年]](昭和57年)3月までの2年間に、総額152億円を大阪市の文化振興基金に寄付し<ref>このスキームを利用すれば法人税法上、寄付をした全額を損金として処理できるため、この寄付に応じた各社にとっても税負担の圧縮等メリットがあった</ref>、その寄付金で大阪市が買い取ることにした。美術館の建築資金18億円は、基金への寄付金の積み立てに伴う運用利息で賄った<ref>[[西川善文]]『ザ・ラストバンカー <small>西川善文回顧録</small>』([[講談社]]、2011年) ISBN 978-4-06-216792-5 第二章 宿命の安宅産業 p85-97を参照。</ref>。
 
詳しい経緯は、[[安宅英一]]の側近で初代館長の[[伊藤郁太郎]]が、『美の猟犬 [[安宅コレクション]]余聞』([[日本経済新聞出版社]]、[[2007年]])で回想している。伊藤によると、安宅は経営危機でコレクションへの発言権を失っていく最中に、「会社のためなら、安宅コレクション一切を投げ出してもよいのですよ。それで会社が救われさえすれば…」と漏らしていたという。また、東洋陶磁美術館開館後に館を訪れた安宅に、伊藤が「あれほど一生延命お集めになったコレクションが、人出に渡ってしまって、さぞお口惜しいことでしょう。お気落としになっておられるでしょうね、と慰めて下さる方が多いです。」と言うと、安宅は「コレクションは、誰が持っていても同じでしょう」と答え、コレクションがどのような結末を迎えようが、コレクションとして続く限りその価値は変わらないという、安宅のコレクターとしての境地を示している<ref>伊藤郁太郎 「[論考]ものとして 語らしむ─安宅英一の美学」『「美の求道者・安宅英一の眼─安宅コレクション」展図録。』、p.230。</ref>。
 
寄贈された安宅コレクションは965件で、その内訳は以下のとおりであった<ref>伊藤郁太郎「20年の歩み」『大阪市立東洋陶磁美術館20年史』、2002</ref>。