「ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団」の版間の差分

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=== テンシュテット時代(1983年 - 1987年) ===
[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]から[[西ドイツ]]に亡命し、[[キール (都市)|キール]]を本拠に活動を始めたばかりだった指揮者、[[クラウス・テンシュテット]]がロンドン・フィルと[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の[[交響曲第1番 (マーラー)|交響曲第1番]]を録音したのは[[19791977年]]のことだった。
 
EMIから発売されたこの録音を聴いた[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]がその演奏を激賞し、[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]の指揮台へ招いたというエピソードがあるが、テンシュテットの能力と才能に驚いたのはロンドン・フィルも同じだった。彼らの距離は次第に縮まり、[[1983年]]には首席指揮者に招かれる。
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それまでの楽団の伝統にはなかったマーラーの音楽という新風を吹き込み、次々にスタジオ録音が行われ、『[[大地の歌]]』を含む交響曲全集やオーケストラ伴奏つき歌曲が録音され、次々に発売された。マーラーの音楽を完全に理解したテンシュテットの解釈がロンドン・フィルのもとで徹底され、比類のない完成度となったこのマーラー全集は、日本でも大評判になり、改めてこのコンビの蜜月ぶりを内外に示した。ベートーヴェンの[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番『英雄』]]、[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|第6番『田園』]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の[[交響曲第1番 (ブラームス)|交響曲第1番]]、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]管弦楽曲集、[[リヒャルト・シュトラウス]]の交響詩などが録音されたが、そのいずれも高い完成度を誇っている。
 
[[19841985年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に演奏旅行中だったテンシュテットは、身体の不調を訴え精密検査を受けたところ、喉頭がんにかかっていることがわかり、治療を続けるが、[[1987年]]、体調不良のため首席指揮者の任を降りることを発表する。楽団はテンシュテットに「桂冠指揮者」のポストを贈り、労に報いた。
 
テンシュテットはその後も闘病生活を続け、体調が良いときにはロンドン・フィルやベルリン・フィルにも客演した。[[1988年]]の日本公演では来日して指揮できるかが危ぶまれたが、無事指揮台に立ち、マーラー、そして[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の素晴らしい演奏を日本の音楽ファンに聴かせた。