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朱全忠の次兄である'''朗王'''の'''朱存'''の次男。兄に'''朱友寧'''がいる。
 
[[新唐書]]によると、[[902年]]に朱全忠が[[鳳翔]]から本拠地の[[開封|大梁]]に帰還する時に[[鳳翔]]に甥の友倫を鳳翔を残して、朱全忠の形式上の[[盟友]]である[[貴族]]の[[崔胤]]('''崔四入''')と共に政権を任せた。ところが翌年の冬10月に友倫は[[ポロ]]の[[競技]]をやっている最中に落馬して、頭の打ち所が悪くそれが原因で死亡した。このことを聞いた叔父の朱全忠は甥の急死に激怒して、友倫と一緒に競技した十数人の仲間を誅殺した。さらに、朱全忠は甥の非業の死が[[宰相]]・崔胤による陰謀ではないかと猜疑した。事実、崔胤は朱全忠の有能な部下を優遇する条件で招いており、朱全忠を牽制する動向が見られた。いずれは朱全忠の政敵になる可能性が大であった。ついに朱全忠は翌年の春正月に軍勢を率いて“甥の仇討ち”と称して鳳翔に攻め寄せて、崔胤の自邸を包囲し、崔胤とその妻子・孫らを全て皆殺しとしたのである。
 
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