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== 名称 ==
正式名称({{lang-es|Comunidad Foral de Navarra}}, {{IPA-es|komuniˈðað foˈɾal de naˈβara|}} : コムニダ・フォラル・デ・ナバラ, {{lang-eu|Nafarroako Foru Komunitatea}}, {{IPA-eu|nafaroako foɾu komunitatea|}} : ナファロアコ・フォル・コムニタテア)は「ナバラ特権州」の意味を持ち、特権([[フエロ]])とはかつて[[カスティーリャ王国]]が各地域に認めていた地域特別法のことである。英語やフランス語ではNavarre({{IPAc-en|lang|n|ə|ˈ|v|ɑr}}、ナヴァール)。ナバラとは[[バスク語]]で「森」または「[[オーク]]の林」<ref>{{cite book|和書|author=石塚秀雄|title=バスク・モンドラゴン 協同組合の町から|publisher=彩流社|year=1991|isbn=|pages=54}}</ref>、「山々に囲まれた平原」という意味である{{sfn|立石|2000|pp=81-82}}。
 
== 地理 ==
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[[File:Kloster Leyre.jpg|right|thumb|「ナバラ王国の心臓」と称えられた[[レイレ修道院]]]]
 
905年に{{仮リンク|サンチョ1世 (ナバラ王)|label=サンチョ1世|es|Sancho Garcés I de Pamplona}}によって[[ヒメノ朝|ヒメネス王朝]]が始まると、イスラーム教徒との間で領土の奪い合いが繰り返された{{sfn|コンラ|2000|pp=57-59}}。耕地が少ないナバラ地方は人口過剰の問題に悩まされていたが、サンチョ1世は8世紀初頭からイスラーム教徒の手にあったリオハ地方を併合して社会・経済基盤を拡充した{{sfn|立石|2000|pp=81-82}}。10世紀半ばには[[レオン王国]]、アラバ領主、[[カスティーリャ王国]]などと婚姻関係を結んでいる{{sfn|バード|1995|pp=45-46}}。10世紀末には{{仮リンク|サンチョ2世 (ナバラ王)|label=サンチョ2世|en|Sancho II of Pamplona}}(在位970年-994年)が娘のウラカ・サンチェスを[[後ウマイヤ朝]]の宰相{{仮リンク|アル・マンスール・ビッ・ラーヒ|en|Almanzor}}に与えて平和を確保しており、アル・マンスールとウラカ・サンチェスの間には後ウマイヤ朝最後の[[アミール]]である{{仮リンク|アブド・アッラフマーン・サンチュエロ|en|Abd al-Rahman SAnchuelo}}が生まれている{{sfn|コンラ|2000|pp=62-63}}。パンプローナ王国は首都を持ち司教区を為す主権王国となり、1000年までにはナバラ王国として知られるようになった{{sfn|バード|1995|pp=48-53}}。
 
1004年に即位した[[サンチョ3世 (ナバラ王)|サンチョ3世]](大王)は、キリスト教諸国との政略結婚を繰り返して、カスティーリャ、ラ・リオハ、アラゴン、バスクの諸地域と次々と同盟関係を結んで王国の地位を強固なものとした{{sfn|アリエール|1992|pp=46-50}}{{sfn|ナバラ州政府|2005|p=59}}{{sfn|コンラ|2000|pp=68-69}}。[[ピレネー山脈]]以南([[イベリア半島]])のキリスト教圏の大部分を支配した{{sfn|Collins|1990|p=181}}、イベリア半島におけるキリスト教勢力の「覇権国家」となった{{sfn|立石|2000|pp=81-82}}。サンチョ3世は西ヨーロッパとの経済・文化的交流を活発化させ、サンティアゴの巡礼路の整備と管理に力を注いだ{{sfn|コンラ|2000|pp=68-69}}{{sfn|立石|2000|pp=81-82}}。レコンキスタの過程でキリスト教勢力の軍事力がイスラーム教勢力を上回ったのはこの時期である{{sfn|コンラ|2000|pp=68-69}}。
 
1035年にサンチョ3世が亡くなると王国は息子たちに分割され、その政治力はサンチョ3世時代まで回復することはなかった{{Sfn|Collins|1990|pp=214-215}}。サンチョ3世の長子である{{仮リンク|ガルシア3世|es|García Sánchez III of Navarre}}はカスティーリャ王フェルナンド1世に敗れ、西部の国境地域を失っている{{sfn|立石|2000|p=112}}。1076年にはアラゴン王[[サンチョ1世 (アラゴン王)|サンチョ1世]]がナバラ王国を併合し、ナバラ王国は[[アラゴン王国]]と同君連合を結ぶと、サンティアゴ巡礼の活況に合わせてパンプローナ、[[ハカ (スペイン)|ハカ]]、[[エステーリャ]]などの町が成長した{{sfn|立石|2000|p=112}}。[[ガルシア6世 (ナバラ王)|ガルシア6世]](復興王)が王位に就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権を建てたが{{sfn|バード|1995|pp=64-68}}、カスティーリャ=レオン王国への臣従とリオハ地方の割譲を余儀なくされている{{sfn|立石|2000|p=112}}。イベリア半島における政治的影響力を低下させた一方で、巡礼路を通じて貿易商や巡礼者が流入したため、ナバラ王国の商業的重要性は増した{{Sfn|Collins|1990|pp=214-215}}。ナバラ王国時代には[[イスラム美術|イスーム美術]]が持ち込まれ、[[トゥデラ]]のモスクの廃墟、[[レイレ修道院]]やフィテロ<small>([[:en:Fitero|英語版]])</small>修道院の象牙細工の小箱などが残っている{{sfn|ナバラ州政府|2005|p=26}}。
 
[[File:Nafarroako Museoa, Euskal Herria.jpg|thumb|left|ナバラ博物館に所蔵されているイスラーム時代の象牙箱]]
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1512年にはカスティーリャ王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド5世]]がナバラ王国に侵攻して併合し{{sfn|萩尾|吉田|2012|pp=71-75}}{{sfn|Monreal|Jimeno|2012|pp=30-32}}、ナバラ王国は[[カスティーリャ王国]]の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバラ王国に残された<ref>{{cite book|和書|author=渡部哲郎|title=バスク もう一つのスペイン|publisher=彩流社|year=1984|isbn=|pages=36}}</ref>。ナバラ人はフランス王朝の終焉をそれほど残念には思わず、カスティーリャ王国内での自治権の保持に力を注いだ{{sfn|バード|1995|pp=157-160}}。1530年時点で、現在のナバラ州に相当する地域はスペイン全体の2.5%の人口を有していたが、スペイン王国に統合された影響もあり、1591年には1.9%にまで減少している<ref name=ishikawa177/>。
 
ナバラ王位にあった[[カタリナ (ナバラ女王)|カタリナ]]と[[フアン3世 (ナバラ王)|フアン3世]]は[[ピレネー山脈]]北部に逃れ、1555年までに、アルブレ家の女王[[ジャンヌ・ダルブレ]]が率いるナヴァール王国(ナヴァール=ベアルン王国)が確立された。ピレネー山脈の南側では、1610年にアンリ4世がスペイン側のナバラ王国に進軍の準備を行うまで、副王領としての王国は不安定なバランスの上にあった。ナヴァール王エンリケ3世が1589年にフランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]として即位すると、歴代のフランス王はナヴァール王を兼ねた。フランス側のナヴァール王国は17911620年にフランス王国の一部となったが、1789年まで存続独自の制度と権限を有てい<ref name=aunamendinavarra>[http://www.euskomedia.org/aunamendi/97937/142970 Navarra. Historia: Edad Moderna] アウニャメンディ百科事典</ref>
 
17世紀のナバラでは農業がほぼ唯一の経済であり、穀物やブドウの生産、家畜の飼育などが行われ、小麦・羊毛・ワインなど小規模の輸出貿易をおこなった{{sfn|バード|1995|pp=201-208}}。スペイン海軍の船にはナバラ産の材木が使用され、隣接するギプスコアに[[鉄鉱石]]を運んだ{{sfn|バード|1995|pp=201-208}}。17世紀におけるナバラとバスク全体の人口は約35万人だった。この世紀には黒死病の再流行によってスペイン全体の人口が850万人から700万人に減少しており、ナバラやバスクは黒死病による死者は少なかったが、社会的流出が多かったために人口は増加しなかった{{sfn|バード|1995|pp=201-208}}。
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1841年にはナバラ特権政府の代表が妥協法に署名し{{sfn|Collins|1990|p=275}}、旧来のフエロが廃止されてスペイン憲法の枠組みによるフエロの再編が行われた{{sfn|関|立石|中塚|2008|p=352}}{{sfn|萩尾|吉田|2012|pp=76-80}}。関税境界がバスクとスペインの境界(エブロ川)からスペイン・フランス国境(ピレネー山脈)に移動に移転すると、ピレネー山脈を挟んだナバラの貿易の慣習が崩壊し、税関を経由しない密輸が台頭した。ビスカヤ県やギプスコア県とは異なり、ナバラ県ではこの時期に製造業が発展せず、基本的には農村経済が残っていた。1872年から1876年の第三次カルリスタ戦争中では再びカルリスタ勢力が敗北{{sfn|萩尾|吉田|2012|pp=76-80}}。1876年7月21日法はスペイン国家に対する兵役や納税などを規定しており、事実上フエロが撤廃された法律と解釈されている{{sfn|萩尾|吉田|2012|pp=76-80}}。1877年には一般評議会と特権議会が廃止され、バスク地方全域のスペインへの統合が完了した{{sfn|萩尾|吉田|2012|pp=76-80}}。
 
1893年から1894年にはパンプローナ中心部で{{仮リンク|ガマサダ|es|Gamazada}}と呼ばれる民衆蜂起が起こり、1841年の特権規定や1876年の財政保証廃止などのマドリード政府の決定に抵抗した。アルフォンシノスと呼ばれる小規模な派閥を除き、ナバラのすべての政党は、{{仮リンク|ラウラク・バット|en|Coat of arms of Basque Country (autonomous community)}}(4つは1つ、[[スペイン・バスク]]の4県の統合を目指す考え方)を合言葉とする地方自治に基づいた新たな政治的枠組みの必要性について合意した。
 
絶対主義勢力がカルリスタ戦争に敗北すると、バスク地方の他地域では[[バスク・ナショナリズム|バスク民族主義]]が台頭したが、ナバラでは状況が異なった{{sfn|バード|1995|pp=281-282}}。ナバラでは敗戦後もカルリスタの影響力が大きく、フエロの存続を大義として保ち、1936年までは一定の政治力を発揮している{{sfn|バード|1995|pp=282-284}}。
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[[File:Universidad de navarra.JPG|thumb|right|[[オプス・デイ]]が設立した私立のナバラ大学]]
 
スペイン内戦後の1939年には[[フランコ体制下のスペイン|フランコ独裁政権]]が成立し、アラバやナバラは内戦時の支援の報酬として、フエロを想起させる特権の数々の維持が認められた<ref name=eusko>{{cite web |url= http://www.euskomedia.org/aunamendi/97937/142976 |title=Navarra. Historia: Franquismo|author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |date= |website=Auñamendi Eusko Entziklopedia|publisher= EuskoMedia Fundazioa|accessdate=16 September 2014}}</ref>。内戦後には物資の欠乏、飢饉、密輸などが深刻化し、経済は小麦、ブドウ、オリーブ、大麦などの農業に依存し、人的移動は負の方向に傾いた。戦争の勝利者はカルリスタと[[ファランヘ党|ファランヒスタ]](ファランヘ党支持者)というふたつの主要な派閥に群れをなし集まった<ref name=eusko/>。カトリック教会に関連する組織である[[オプス・デイ]]は、1952年にパンプローナに[[ナバラ大学]]を設立した{{sfn|Arthur|2006|p=47}}。今日のナバラ大学はもはやオプス・デイの所有物ではないが、世界規模で活動するオプス・デイにとって最大の「お抱え」大学である{{sfn|Arthur|2006|p=47}}。
 
1950年頃にはギプスコア県やビスカヤ県のように工業誘致を行い、化学工業、製紙業、製鉄業、鉄鋼業などの企業がナバラ県に進出した{{sfn|バード|1995|pp=305-309}}。ナバラ県第一の産業は農業から工業に入れ替わり、1950年からの20年間で、農業従事者割合は55%から26%に低下した{{sfn|バード|1995|pp=305-309}}。特にパンプローナの人口・企業増加が大きく、1978年にはナバラ県全体の45%の人口と60%の企業を集めていた{{sfn|バード|1995|pp=305-309}}。フランコ政権末期の民主化準備段階において、ナバラ県では[[バスク祖国と自由]](ETA)、警察、県が後援する民兵組織による暴力活動が行われ、その風潮は1980年代以降まで続いた。
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[[File:Íñigo Urkullu, Uxue Barkos 2015 (cropped).jpg|thumb|right|いずれもバスク民族主義を志向するナバラ州の[[ウシュエ・バルコス|バルコス]]首相(右)とバスク州の[[イニゴ・ウルクリュ|ウルクリュ]]首相(左)]]
 
[[フランコ体制下のスペイン|フランコ独裁政権]]の終焉後、1982年にナバラ県が一県でナバラ州に昇格した{{sfn|関|立石|中塚|2008|p=387}}。17自治州中16自治州は[[スペイン1978年憲法]]第143条または第151条を根拠として自治州を設置しているが、ナバラ州のみは付則1を根拠としており{{sfn|関|立石|中塚|2008|p=231}}、「ナバラのフエロス体制の回復と調整に関する法」によって自治州に昇格した{{sfn|関|立石|中塚|2008|p=399}}。他の16自治州のように自治憲章を制定したわけではなく、中世からのフエロを復活させるという形式を取っている{{sfn|関|立石|中塚|2008|p=399}}。17自治州のうち15自治州では中央政府が徴税した税金の一部を各自治州に分配しているが、ナバラ州と[[バスク州]]は各県に徴税権があり、その一部が国庫に納められるという、強力な財政上の自治権を有している{{sfn|萩尾|吉田|2012|pp=151-155}}。
 
他の自治州同様に、ナバラ州議会は4年ごとに州議員選挙を行っており、議会の多数派がナバラ州政府を担当する州首相を決定する。1979年には、国民同盟(AP、[[国民党 (スペイン)|国民党]]の前身)と提携する地方政党である[[ナバーラ住民連合|ナバラ住民連合]](UPN)のハイメ・イグナシオ・デル・ブルゴが初の首相に選出されたが、70議席中9議席を獲得した[[バスク・ナショナリズム|バスク民族主義]]左派政党も一定の強さを示した{{sfn|バード|1995|pp=305-309}}。1980年には[[民主中道連合]](UCD、後に解散)から、1984年には[[スペイン社会労働党]](PSOE)のナバラ支部である{{仮リンク|ナバラ社会党|es|Partido Socialista de Navarra}}(PSN)から州首相が選出された。ナバラ社会党は7年間にわたって州首相の座を維持し、1991年からの4年間はナバラ住民連合が、1995年からの2年間はナバラ社会党が州首相の座を担ったが、1996年にはナバラ住民連合が州首相の座を奪い返し、[[ミゲル・サンス]]が15年間に渡って州首相を務めた<ref name=formerpresidents/>。2011年にはサンスに代わってナバラ住民連合の[[ジョランダ・バルシーナ]]が女性として初めて州首相に就任した<ref name=formerpresidents>{{cite web |url=http://www.navarra.es/home_en/Gobierno+de+Navarra/Presidencia/Presidentes+anteriores.htm |title=Former presidents |work=ナバラ州政府 |date= |accessdate=2015-10-30}}</ref>。
 
右派のナバラ住民連合と左派のナバラ社会党に加え、バスク民族主義を標榜する政党も一定の支持基盤を持つ{{sfn|萩尾|吉田|2012|p=139}}。これらの政党はナバラ州とバスク州の合併を指針に挙げているが、ナバラ住民連合はこの動きに強固に反対している{{sfn|萩尾|吉田|2012|p=143}}。2002年以後にはバスク民族主義急進左派が非合法化されたため、バスク民族主義政党はいったん議席数を減らしたものの、超党派の[[フェロア・バイ|ナファロア・バイ]]によって2007年選挙で第2勢力となり、2011年選挙ではバスク民族主義勢力が過去最大の得票率29%と15議席を得た{{sfn|萩尾|吉田|2012|pp=144-145}}。2015年にはバスク民族主義党を中心とする[[ゲロア・バイ]]の[[ウシュエ・バルコス]]が首相に就任し、1979年以降で初めてバスク民族主義を掲げる政権が誕生した<ref name=greenleft>{{cite web |url=https://www.greenleft.org.au/node/59330 |title=Spanish elections: History made as pro-Basque coalition formed in Navarre |work=Green Left Weekly |date=2015-06-27 |accessdate=2015-10-30}}</ref>。ナバラ住民連合は4議席減の15議席に終わり、ナバラ国民党も議席数を半減させた<ref name=greenleft/>。
 
{| class="wikitable" style="font-size: smaller;"
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=== 産業 ===
1960年代までナバラ県の経済は[[第一次産業]]が中心だった{{sfn|ナバラ州政府|2005|pp=71-76}}。山岳部では牧畜が行われてトウモロコシやテンサイなどが栽培され、中央部の盆地にはヒマワリやアブラナなどの加工用[[プランテーション]]が広がり、[[エブロ川]]流域にはオリーブやブドウの畑が広がっている{{sfn|ナバラ州政府|2005|pp=71-76}}。1960年代には工業化が始まり、当初は繊維業や皮革業などが中心だったが、1973年には金属工業が[[第二次産業]]分野の首位となった{{sfn|ナバラ州政府|2005|pp=71-76}}。金属工業からは[[フォルクスワーゲン]]の工場と部品工場を中心とする自動車産業が派生し、1980年代後半には自動車産業が優勢となった{{sfn|ナバラ州政府|2005|pp=71-76}}。1994年の失業率は10.0%(スペイン平均は20.8%)であり、17自治州でもっとも低かった{{sfn|楠|タマメス|戸門|深澤|1999|p=359}}。
 
2000年代には第二次産業の中で自動車産業と機械鉱業が抜きんでており、主要都市の工業団地にその他の産業の工場が存在する。ペラルタ/アスコイエン<small>([[:en:Peralta|英語版]])</small>は金属工業、[[エステーリャ]]はグラフィックアート、アリョ<small>([[:en:Allo|英語版]])</small>やレイツァ<small>([[:en:Leitza|英語版]])</small>や[[サングエサ]]は製紙業、[[レサカ]]やベラデビダソア<small>([[:en:Vera de Bidasoa|英語版]])</small>は冶金工業、オラスティ/オラサグティア<small>([[:en:Olazti/Olazagutia|英語版]])</small>はセメント、カスカンテ<small>([[:en:Cascante|英語版]])</small>は繊維業といった具合に、第二次産業は州各地に散らばっている{{sfn|ナバラ州政府|2005|pp=71-76}}。また、2000年代には[[風力発電]]、[[光電池]]、[[太陽光発電]]などのエネルギー産業が著しく発展し、[[再生可能エネルギー]]は州内の電気エネルギー消費の60%を賄っている{{sfn|ナバラ州政府|2005|pp=71-76}}。スペイン銀行によれば2012年第一四半期の失業率は16.3%であり、スペインの17自治州中16位の低さだった(スペイン平均は24.4%)<ref>[http://www.bde.es/webbde/es/estadis/infoest/a2413.pdf Unemployment rate by autonomous communities] スペイン銀行</ref>
 
[[File:CajaNavarra.JPG|thumb|right|ナバラ銀行]]
 
ナバラ貯蓄銀行とパンプローナ貯蓄銀行が合併して誕生した{{仮リンク|ナバラ銀行|es|Caja Navarra}}はスペイン有数の金融機関{{sfn|ナバラ州政府|2005|pp=71-76}}だったが、2012年にはナバラ州政府の高官に対して不自然な支出を行っていたこと<small>([[:en:Caja Navarra scandal|英語版]])</small>が明るみとなり、{{仮リンク|貯蓄銀行_(スペイン)|es|Cajas de ahorros de España|en|Savings bank (Spain)|label=貯蓄銀行}}としての営業は2013年に停止した<ref name="fundacion">[http://www.cajanavarra.com/caja-navarra/actualidad/caja-navarra-se-transforma-en-fundacion-caja-navarra Caja Navarra se transforma en Fundación Caja Navarra] ナバラ銀行</ref>。2015年時点のナバラ州の1人あたり地域総生産はEU平均より約5%高い位置にある<ref name=upneconomy>{{cite web |url=http://www.unavarra.es/conocerlauniversidad/en-campus/the-surrounding-area/navarre?submenu=yes&languageId=1 |title=Navarre Economy |work=ナバラ州立大学 |date= |accessdate=2015-10-02}}</ref>。
 
=== 域内総生産 ===
1960年代から1980年代のナバラ県は1人あたり域内総生産(GRP)で常にスペイン平均を上回っており、スペイン平均を100とした場合の1962年の指数は114.8(17地域中5位){{sfn|立石|2000|p=348}}、1975年の指数は113.5(17地域中5位){{sfn|立石|2000|p=348}}、1987年の指数は116.9(17自治州中4位){{sfn|立石|2000|p=348}}、1994年の指数は118(17自治州中4位){{sfn|楠|タマメス|戸門|深澤|1999|p=359}}だった。1994年の域内総生産の内訳は農業が5.6%、工業が34.5%、建設業が7.2%、サービス業が52.7%であり、工業比率は17自治州中1位、サービス業比率は17自治州中17位だった{{sfn|楠|タマメス|戸門|深澤|1999|p=359}}。1994年時点でナバラ州は豊かな農業と新興工業を有しており、EU平均の国内総生産を100とすると96だった{{sfn|楠|タマメス|戸門|深澤|1999|p=358}}。1994年の失業率は10.0%(スペイン平均は20.8%)であり、17自治州でもっとも低かった{{sfn|楠|タマメス|戸門|深澤|1999|p=359}}。
 
2010年のナバラ州の域内総生産は246億GKドルであり、スペインの全17自治州中14位にすぎないが<ref>[http://www.ine.es/prensa/np695.pdf Contabilidad Regional de España. Base 2008 Serie 2008-2010] [[スペイン国立統計局]](INE)</ref><ref>[http://www.ine.es/daco/daco42/cre00/c11_cre.xls GDP Figures of Spanish autonomous communities and provinces 2000–2010.] [[スペイン国立統計局]](INE)</ref>、1人あたり域内総生産は38,736GKドル/人であり、バスク州に次いでスペイン第2位である(スペイン平均は29,810GKドル)<ref>[http://www.ine.es/en/prensa/np645_en.pdf Regional Gross Domestic Product Year 2010. First estimate] [[スペイン国立統計局]](INE)</ref><ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2011/02/weodata/index.aspx September 2011 database] [[国際通貨基金]](IMF)</ref>。2012年の1人当たり域内総生産は29,071ユーロ/人であり、バスク州とマドリード州に次いでスペイン第3位だった(スペイン平均は22,772ユーロ)<ref name=PIB2012>[http://www.ine.es/prensa/np774.pdf Producto Interior Bruto regional. Año 2012] [[スペイン国立統計局]](INE)</ref>。2008年から2011年の域内総生産成長率はスペインの全17州でマイナスを記録したが、ナバラ州の成長率はマイナス0.33%であり、カスティーリャ・イ・レオン州に次いで2位だった(スペイン平均はマイナス1.05%)<ref>[http://www.ine.es/prensa/np706.pdf Regional accounts report], p. 2–5. [[スペイン国立統計局]](INE)</ref>。スペイン銀行によれば20122015第一四半期時点失業率は16.3%であり、スペインの17自治ナバラ中16位低さだっ1人あ(スペインり地域総生産はEU平均は24.4より約5%高い位置にある<ref name=upneconomy>[{{cite web |url=http://www.bdeunavarra.es/webbdeconocerlauniversidad/esen-campus/estadisthe-surrounding-area/infoest/a2413.pdfnavarre?submenu=yes&languageId=1 Unemployment|title=Navarre rateEconomy by autonomous|work=ナバラ州立大学 communities]|date= スペイン銀行|accessdate=2015-10-02}}</ref>。
 
== 社会 ==
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[[File:Navarra - Mapa densidad euskera 2001.svg|thumb|right|地域別のバスク語話者比率<br />{{colorbox|#06C}} 高密度 {{colorbox|#CC9}} 低密度]]
 
[[スペイン語]]はナバラ州を含むスペイン全土の公用語であるが、ナバラ州の[[バスク語]]話される地域ではバスク語も公用語の地位を得ている<ref name=parlamento>{{cite web |url=http://www.parlamentodenavarra.es/home.aspx |title=Parlamento de Navarra |work=ナバラ州議会 |date= |accessdate=2015-10-26}}</ref>。1986年には、ナバラ州を言語によって3領域に分割する法律が制定された{{sfn|石井|2013|p=44}}。バスク語が普及している「バスク語圏」では、スペイン語に加えてバスク語も公用語とされている。「混合圏」と「非バスク語圏」(スペイン語圏)では段階的にバスク語の公的認知が弱められており<ref name=parlamento/>{{sfn|石井|2013|p=44}}、「混合圏」でもバスク語は公用語の地位を得ているものの、「非バスク語圏」では公用語とされていない。北部の山岳地帯はバスク語話者率が高く、南部の平地は早い時期からの異民族の侵入によってバスク語話者率が低い{{sfn|萩尾|吉田|2012|p=138}}。ナバラ州におけるバスク語話者人口の約半数が[[パンプローナ]]に集中しているが、これはパンプローナの絶対的な人口の多さによるものであり、パンプローナのバスク語話者率は約20%にすぎない{{sfn|萩尾|吉田|2012|p=138}}。
 
2006年の調査では、州民の11.1%がバスク語話者、7.6%が能動的でないバスク語話者、81.3%がスペイン語の単一話者だった。バスク語話者が9.5%だった1991年の調査に比べて、バスク語話者の割合は増加している{{sfn|Gobierno Vasco|2008}}。年齢別のバスク語話者割合は均質ではなく、35歳以上で低いのに対して、16-24歳では20%以上を記録している<ref name=Vinkesta/>。2011年の国勢調査によれば、バスク語話者は11.7%(63,000人)と微増した<ref name=Vinkesta>{{cite web |url=http://www.euskara.euskadi.net/contenidos/informacion/argitalpenak/eu_6092/adjuntos/V.%20Inkesta.pdf |title=V Inkesta Soziolinguistikoa |author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |date=2013-07-01 |website=Eusko Jaurlaritza |publisher=Euskal Autonomia Erkidegoko Administrazioa Hezkuntza, Hizkuntza Politika eta Kultura Saila |accessdate=2015-10-30}}</ref>。バスク地方では民主化以後に自治体の公式名をスペイン語名からバスク語名に改名する動きがみられ{{sfn|石井|2013|p=39}}、ナバラ州では272自治体中110自治体が自治体名の変更を行っている{{sfn|石井|2013|p=43}}。