「ズノー光学工業」の版間の差分

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=== 135フィルム使用カメラ ===
*'''ズノーペンタフレックス'''([[1958年]]8月発売) - 銘にズノーと付いているが製造販売会社はズノー光学工業ではなく新光精機である。完全自動絞りを備えた世界初の一眼レフカメラ。設計者はかつて千代田光学(後の[[ミノルタ]]、現・[[コニカミノルタ]])でミノルタ35の開発に携わり、その後も様々なカメラの設計に関わった荒尾清。デザインは開発段階から[[榮久庵憲司|GKインダストリアルデザイン研究所]]の協力を受けて行なわれた。発表されたのは『[[写真工業 (雑誌)|写真工業]]』1958年3月号である<ref name="clacamesenka9-111">『クラシックカメラ専科No.9、35mm一眼レフカメラ』p.111。</ref>。[[4月25日]]に東京の[[椿山荘]]で記者発表会を開き、試作品が公開された<ref name="clacamesenka9-111"/>。[[8月5日]]から[[8月10日]]まで[[三越]]日本橋本店で一般に公開された<ref name="clacamesenka9-111"/>。クイックリターンミラーを装備し、シャッターは一軸不回転式で全速中間シャッターが使用可能。巻き上げレバーによる巻き上げ、巻き戻しクランクによる巻き戻しが可能な他、裏蓋が蝶番式で開閉可能と機構的には先進的であった。レンズは専用マウントにより交換可能で'''ズノー'''35mmF2.8、'''ズノー'''50mmF1.8<ref name="clacamesenka3-64"/>、'''ズノー'''58mmF1.2<ref name="clacamesenka3-64"/>、'''ズノー'''100mmF2が用意され、その他に当初は200mm、400mm、マクロ50mmF4.5も予定されていたが発売されることはなかった。華々しいデビューを飾ったものの、2,000を超える部品全てを外注しており、組立時点で部品のばらつきによるトラブルが多発、手直しが必要で品質が一定せずフィルム巻き上げ部分に故障が多く返品が相次いだ<ref>『ズノーカメラ誕生』p.29。</ref><ref name="clacamesenka3-64"/>。何らかの手立てを講じようにも、荒尾清が上層部との軋轢で退社してしまい、また新光精機は設立したばかり、ズノー光学工業は元々レンズメーカーで双方ともカメラ製造のノウハウを持っていなかった事もあって、組立の段階で仕様を変更するなどの付け焼刃的な対応に留まり、またそれに伴って生産が遅々として進まず、結果1959年後半に撤退が決まり新光精機は清算された。全部で500台ほどしか製造されず、製品として販売されたのはそのうち200台程度しかなかったとする説もある。仕掛け部品や型は廃棄され、更にはカメラの多くも回収の上廃棄された。そのため現存する個体は極少数とされ、100万円台の高値で取引されている。シリアルナンバーは頭が1958の製品と1959の製品があり、製造年を示すと推測されている<ref name="clacamesenka9-111"/>。中期の製品はフィルムが2回巻き上げとなり、シャッターボタンを押すと絞りを絞ってからミラー作動の2段作動になっている。後期の製品ではシリアルナンバーが巻き戻しクランクの下から巻き上げレバーの下に移され、1回巻き上げ、シャッター2段作動になった。ファインダーとスクリーンは交換式と発表されていたが結局発売されずに終わった<ref name="clacamesenka9-111"/>。
**なお、設計者の荒尾清は35mm一眼レフを設計するのは初めてで、どのように設計すれば良いのか分からず、当時唯一のペンタプリズム一眼レフであった[[ミランダカメラ]]のミランダTを模倣して設計している。ミランダTに無理に荒尾の理想とする機構を詰め込んだ形で、しかもカメラを作った事のない新光精機やズノー学工業が生産を手掛けた。不慣れな設計と不慣れな生産がこのカメラを瞬く間に市場から消し去る要因にもなった。
 
=== 16mmフィルム使用カメラ ===