「杉浦敏介」の版間の差分

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[[東京市]][[下谷|下谷区]]に杉浦倹一・とし夫妻の次男として生まれる。杉浦家は[[江戸時代]]、[[幕臣]]であった。[[東京高等学校 (旧制)|東京高等学校]]を経て、[[東京大学|東京帝国大学]]法学部卒業後の[[1935年]]、[[日本勧業銀行]](現[[みずほフィナンシャルグループ]])に入行。[[1952年]]に設立された長銀創立に参加。専務、副頭取を経て[[1971年]]5月から[[1978年]]6月まで頭取。その後は会長、相談役最高顧問などを務めた。
 
会長時代も含め20年近くも経営トップの座に君臨し、「長銀中興の祖」、「'''長銀のドン'''」と呼ばれた。在職中、[[リース]]・[[不動産]]・[[流通]]といった新興企業へ積極的な貸出姿勢をとったが、これらの企業への貸出は[[バブル景気|バブル]]崩壊後ことごとく[[不良債権]]化した。特に、杉浦が中心となって進めた[[イ・アイ・イ・インターナショナル]]に対する融資3,800億円がこげ付いたことは、長銀の経営破綻の大きな原因となった。その後、道義的責任を問われるが本人はこれを否定し続けた。しかし、周囲の勧めもあり、自宅を売却して退職金(総額9億円)の一部として2億円を返還した<ref name=kyodo>{{cite news |title=杉浦・元長銀頭取が死去 破たんで退職金返還|agency=[[共同通信社]]|publisher=[[47NEWS]]|date=2006-1-28 |url=http://www.47news.jp/CN/200601/CN2006012801001016.html|accessdate=2014-10-30}}</ref>。
=== 晩年 ===
会長時代も含め20年近くも経営トップの座に君臨し、「長銀中興の祖」、「'''長銀のドン'''」と呼ばれた。在職中、[[リース]]・[[不動産]]・[[流通]]といった新興企業へ積極的な貸出姿勢をとったが、これらの企業への貸出は[[バブル景気|バブル]]崩壊後ことごとく[[不良債権]]化した。特に、杉浦が中心となって進めた[[イ・アイ・イ・インターナショナル]]に対する融資3,800億円がこげ付いたことは、長銀の経営破綻の大きな原因となった。その後、道義的責任を問われるが本人はこれを否定し続けた。しかし、周囲の勧めもあり、自宅を売却して退職金(総額9億円)の一部として2億円を返還した<ref name=kyodo />。
 
2006年1月27日、急性[[心筋梗塞]]のため東京都内の自宅で死去。[[享年]]94歳没<ref name=kyodo>{{cite news |title=杉浦・元長銀頭取が死去 破たんで退職金返還|agency=|publisher=共同通信|date=2006-1-28 |url=http://www.47news.jp/CN/200601/CN2006012801001016.html|accessdate=2014-10-30}}</ref>。
 
== 関連項目 ==