「ネブカドネザル2世」の版間の差分

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ネブカドネザル2世は新バビロニア王国建国者ナボポラッサルの息子としてB.C.630年頃に生まれた。ネブカドネザル2世は[[旧約聖書]]の中に「ネブカドネツァル」として現れることでも知られる。B.C.607~B.C.606年に皇太子として[[アッシリア]]に遠征し、[[ハッラーン|ハラン]]にあったアッシリアの残存勢力を攻撃、B.C.606~B.C.605年にそれを助けるべく出兵した大国[[古代エジプト|エジプト]]の王[[ネコ2世]]率いるエジプト軍に撃退されると、{{仮リンク|カルケミシュの戦い|en|Battle of Carchemish}}、父親に代わって軍の総裁となり、カルケミシュ(現在のジュラーブルス)とハマトでエジプト軍を打ち破って[[歴史的シリア|シリア]]の大半を制圧した([[紀元前7世紀|紀元前606年]])。
 
[[紀元前7世紀|紀元前605年]][[8月15日]]父王ナボポラッサルが死去すると急遽[[バビロン]]へ帰還し、三週間で政権を握り、父の王位を継ぎバビロニア王となった。彼が王となってすぐ(B.C.601年)にエジプトは[[歴史的シリア|シリア地方]]とパレスチナへの介入を再開し[[ユダ王国]]、また征服したシリア地方の諸王国でも各地で反乱の火の手があがったが、ネブカドネザル2世はエジプトに大敗した。これに対し[[紀元前6世紀|紀元前597年]]にはパレスティナにかろうじて存続していたユダ王国を属国とした。また、イェルサレムに攻め入って、[[ヨヤキン王]]を首都[[バビロン]]に連行した(第一回バビロン捕囚)。[[紀元前6世紀|紀元前595年]]には東に転じて[[エラム]]を攻撃し、かつて全[[オリエント]]を征服して覇を唱えたアッシリア帝国とほぼ同じ領域をエジプトを除き支配下に置いた。
 
[[紀元前6世紀|紀元前589年]]にも再びエジプトが侵入し、ユダ王国もこれに乗じて再び反乱を起こしたために[[紀元前6世紀|紀元前587年]]に再び[[エルサレム]]を包囲し({{仮リンク|エルサレム包囲戦 (紀元前587年)|en|Siege of Jerusalem (587 BC)|label=エルサレム包囲戦}})、翌年陥落させ神殿を破壊した。ユダ王国は属州[[:en:Yehud (Babylonian province)|Yehud]]([[紀元前6世紀|紀元前586年]] - [[紀元前6世紀|紀元前539年]])として併合された。その間得た多くの捕虜は首都バビロンへ連行された(第二回バビロン捕囚)。このことは[[旧約聖書]]、『[[列王記]]』下24:8-25:5にも記されている。同じく旧約聖書中の『[[ダニエル書]]』は彼によってバビロンへ連行された[[ユダヤ人]]たちの物語である。また[[フェニキア]]の[[テュロス]]にも軍を差し向け、13年間にもわたる包囲戦が行われたという。