削除された内容 追加された内容
Sabonya (会話 | 投稿記録)
m +template
Kouko0515 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
{{基礎情報 武士
'''水野 重央'''(みずの しげなか、[[元亀]]元年([[1570年]])- [[元和 (日本)|元和]]7年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]([[1621年]][[12月24日]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[紀伊国|紀伊]][[紀伊新宮藩|新宮藩]]の初代当主([[幕藩体制]]下で、新宮藩は藩主として認められなかった)。
| 氏名 = 水野 重央
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]前期
| 生誕 = [[元亀]]元年([[1570年]])
| 死没 = [[元和 (日本)|元和]]7年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]([[1621年]][[12月24日]])
| 改名 = 重信→重央→重仲
| 別名 = 藤四郎、藤次郎
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 = 全龍院殿日山常春大居士
| 霊名 =
| 墓所 = 全正寺([[和歌山県]][[和歌山市]])
| 官位 = [[従五位|従五位下]][[対馬国|対馬守]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川家康]]→[[徳川頼宣|頼宣]]
| 藩 = [[水戸藩]][[家老]]→[[浜松藩]]主→[[紀伊新宮藩|新宮藩]]主
| 氏族 = [[水野氏]]
| 父母 = 父:[[水野忠分]]
| 兄弟 = [[水野分長|分長]]、[[水野義忠|義忠]]、'''重央'''、[[水野吉勝|吉勝]]、[[松平勝政]]
| 妻 = 正室:'''[[安部信盛]]義妹([[水野信元]]六女)'''
| 子 = '''[[水野重良|重良]]'''、[[水野定勝|定勝]]、しゃむ姫([[大関政増]]正室)<br />[[水野義重]]室、[[小笠原義治]]正室<br />[[松平康信]]正室、[[有馬豊長]]継室
| 特記事項 =
}}
'''水野 重央'''(みずの しげなか)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[紀伊国|紀伊]][[紀伊新宮藩|新宮藩]]([[紀州藩]][[御附家老|附家老]])<ref>[[幕藩体制]]下では[[大名]]格の所領を有しながら[[陪臣]]として扱われ、[[明治維新]]までは大名とは見なされなかった。</ref>初代藩主。[[水野忠分]]の三男。[[官位]]は[[従五位|従五位下]][[対馬国|対馬守]]<ref>官名としては他に[[出雲国|出雲守]]が伝わるが、『[[寛政重修諸家譜]]』に叙任したことを示す記述はない。</ref>。[[諱]]は初め'''重信'''(しげのぶ)を名乗り、のち'''重央'''、次いで'''重仲'''(しげなか)に改めたとされる<ref>『寛政重修諸家譜』には「今の呈譜はじめ重信重央のち重仲にあらたむといふ」とある。</ref>。
 
== 生涯 ==
[[水野忠分]]の次男。兄は[[水野分長]]。正室は[[岡部藩]]主・[[安部信盛]]義妹([[水野信元]]の六女)。子に[[水野重良|重良]](長男)、[[水野定勝|定勝]](次男)、娘([[松平康信]]正室)、しゃむ姫([[大関政増]]正室)、娘([[水野義重]]室)、娘([[小笠原義治]]正室)、娘([[有馬豊長]]継室)となった娘5人。名は'''重仲'''とも。
[[元亀]]元年([[1570年]])、[[水野忠分]]の三男として[[尾張国]]に生まれる。[[天正]]4年([[1576年]])、母方の従兄に当たる[[徳川家康]]に初めて謁見し、のち家康に近侍して5,500石を知行する。天正16年([[1588年]])に[[番頭|大番頭]]となり、天正20年([[1592年]])2月1日には[[武蔵国]][[埼玉郡]]・[[上総国]][[山辺郡 (千葉県)|山辺郡]]内に1,500石を加増される。
 
[[徳川家康慶長]]5年([[1600年]])母方[[関ヶ原従弟にあたる戦い]]では大番頭いう縁故から、早くから家康に仕え重用された従軍慶長6年([[慶長1601年]]13)5月11日、[[従五位|従五位下]][[対馬国|対馬守]]に叙任。慶長11年([[16081606年]])には家康の十男・[[徳川頼宣]]の後見人としてその補佐に当たり、[[常陸国]]内に1万石与え家康か託さた。慶長1413年([[16091608年]])頼宣[[駿河国家老]]、遠州に移されるなり重央も[[遠江常陸国]]浜松移ることとなって215,000石を与えられた。元和3年(幼少である頼宣に代わり、[[1617年水戸藩]])に3万5,000石重央が国政加増され当たっている。元和5慶長14年([[16191609年]])、頼宣が[[紀州駿河国]][[駿府藩]]に転封されると、同年12月22日に重央は新宮に3[[遠江国]][[浜松城]]主となって2万5,000石を与えられ、[[安藤直次]]と共に頼宣の附家老としてその補佐に務めた。しかし附家老という身分上、大名としての資格を失うことになった。
 
慶長19年([[1614年]])の[[大坂の陣|大坂冬の陣]]では初陣を飾った頼宣に従って[[天王寺]]付近に布陣し、翌慶長20年([[1620年]])の[[大坂の陣|大坂夏の陣]]では[[天王寺・岡山の戦い]]で後詰として活躍した。[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])10月24日には駿河・遠江両国内に1万石を加増されている。
元和7年(1621年)11月12日に死去し、跡を長男の重良が継いだ。[[享年]]52。法号は全龍院殿日山常春大居士。墓所は[[和歌山市]]直川の全正寺。
 
元和5年([[1619年]])、頼宣が[[紀州藩]]に移ると、重央は同年7月19日に[[紀伊国]][[紀伊新宮藩|新宮]]に3万5,000石を与えられ、[[安藤直次]]と共に頼宣の[[御附家老|附家老]]としてその補佐に務めた。しかし附家老という身分上、[[大名]]としての資格を失うことになった。
 
元和7年([[1621年]])11月12日に和歌山で死去。[[享年]]52。[[戒名]]は全龍院殿日山常春大居士。墓所は[[和歌山市]]直川の全正寺。長男の[[水野重良|重良]]は附家老が[[陪臣]]として扱われることに不満を抱き、弟の[[水野定勝|定勝]]に新宮3万5,000石を継がせようとしたが、結局[[徳川秀忠]]と[[徳川家光|家光]]の説得を受けて元和9年([[1623年]])に家督を継いでいる。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* 『[[寛政重修諸家譜]]』第2輯、国民図書、1923年、879-880頁。
 
{{浜松藩主|水野氏||1609年 - 1619年}}
14 ⟶ 51行目:
[[Category:譜代大名]]
[[Category:紀伊新宮藩主|水01]]
[[Category:尾張国の人物]]
[[Category:1570年生]]
[[Category:1621年没]]