「熊本藩」の版間の差分

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清正は[[日本三名城]]に数えられる熊本城を築いた。また、[[城下町]]や道路網を整備し、新田開発、灌漑用水の整備により治水を図り、統治を安定させた。土木建設に力を注ぎ領内基盤整備の礎を築いた「清正公さん」(せいしょこさん)の人気は、今日の熊本においても非常に高い。
 
その一方で、近年の加藤清正研究では、朝鮮出兵に対応するために作られた動員・徴税体制や重臣達を支城主にして大きな権限を与える仕組みが百姓に重みになってのしかかり、更に関ヶ原の戦いやその後の天下普請などに備えるためにこの体制が解消されることなく継承され、農村の疲弊や重臣達の権力争いの原因となったことなど、清正治世の問題点も指摘し始めている<ref>山田貴司「加藤清正論の現在地」(山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)</ref>。
 
加藤家2代[[加藤忠広|忠広]]は、[[寛永]]9年([[1632年]])[[徳川忠長|駿河大納言事件]]に連座したとされる罪で改易され[[出羽国]][[庄内地方|庄内]]に配流、加藤家は断絶した。