「ザンクト・ガレン修道院」の版間の差分

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'''ザンクト・ガレン修道院'''は、[[スイス]]の[[ザンクト・ガレン]]にある[[中世]]以来の歴史を誇る[[修道院]]。現在の建物は18世紀に建造されたものであって中世修道院の面影はないが、[[バロック建築]]の傑作として評価されている。また、かつて何世紀にもわたり[[ベネディクト会]]の中心的修道院のひとつであったこの修道院の付属図書館には、数多くの[[写本]]や稀観書が収蔵されている。この修道院と図書館は、1983年に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された。
 
== 歴史 ==
この修道院は[[アイルランド]]から来た聖[[ガルス]]が613年に設立したものが母体となっている。修道院となったのはより後のことであるが、その名(同時にこの修道院のもとで発達した町の名)は、聖ガルスにちなんでいる。聖ガルスは聖[[コルンバヌス]]の弟子にして友人であり、この地で646年に歿した。
 
[[カール・マルテル]]はオトマール (Othmar, 689年頃 - 759年) に聖ガルスがこの地に遺したものの管理を命じた。[[ピピン3世]](小ピピン)の治世下でオトマールはザンクト・ガレンに有名な学校を作り、それらの学校では芸術、文学、科学などが花開いた。[[{{仮リンク|ライヒェナウのヴァルド]]([[:w:|en|Waldo of Reichenau]]}}, 740年 - 814年)が[[修道院長]]だったときに、彼の下で写本の作成が行われ、有名な蔵書が集められていった。そのため、[[アングロ・サクソン]]やアイルランドの多くの僧侶たちが写本を筆写しに訪れた。[[ローマ教皇]][[ハドリアヌス1世]]は[[カール大帝]]の要請を受けて、[[グレゴリオ聖歌]]詠唱を普及していた[[聖歌隊]]をローマから派遣した。
 
10世紀には近隣の修道院である[[ボーデン湖]]の[[ライヒェナウ島|ライヒェナウ]]修道院と争った。だが、924年から933年には[[マジャル人|マジャール人]]に脅かされ、蔵書は安全のためライヒェナウに移された(ほとんどが後に返却された)。
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[[Image:St gall plan.jpg|thumb|ザンクト・ガレンの修道院平面図]]
この図書館はまた、「[[{{仮リンク|ザンクト・ガレンの修道院平面図]]」([[:w:|en|Plan of St.Saint Gall]])}}」として知られる9世紀のユニークな史料も保有している。これは西ローマ帝国滅亡から13世紀までのおよそ700年間に書かれたものとしては、現存する唯一の巨大建築物の設計図である。この図面に描かれたものは当時建造されることはなかったが、この設計図を今日まで伝存してきた修道院の名にちなんでそう呼ばれている。<!-- The plan was an ideal of what a well-designed and well-supplied monastery should have, as envisioned by one of the synods held at [[Aachen]] for the reform of monasticism in the Frankish empire during the early years of emperor [[Louis the Pious]] (between 814 and 817). -->
 
== 登録基準 ==