「ホアキン・バラゲール」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[サンティアゴ県]] ({{interlang|en|Santiago Province (Dominican Republic)|Santiago Province}}) に生まれた。父親は[[カタルーニャ人]]を先祖に持つ[[プエルトリコ]]人であった。[[サントドミンゴ]]で教育をうけ[[パリ大学]]を卒業。当時ドミニカの独裁者だった[[ラファエル・トルヒーヨ]]に忠実で1940~1950年代に外交官、内閣のポストを歴任し、[[1960年]]、副大統領から大統領に昇格した。1961年にトルヒーヨは暗殺され、同年9月にバラゲールは野党との連立政権を約束し、同年11月には制裁を敷いていた米国・[[ベネズエラ]]・[[コロンビア]]などのOAS[[米州機構]]諸国が軍事介入を示唆したためにトルヒーヨ一族を国外に追放した<ref>Giancarlo Soler Torrijos , One Round for Us and Freedom, Life Magazine, 1 December 1961.</ref><ref> In the Shadow of the United States (2008), p. 52</ref>。翌年の[[クーデター]]でバラゲールは失脚する。
 
その後{{仮リンク|ドミニカ内戦|en|Dominican Civil War}}([[アメリカ軍によるドミニカ共和国占領 (1965年-1966年)|ドミニカ侵攻]])が終わった[[1966年]]におこなわれた大統領選で{{仮リンク|キリスト教社会改革党|es|Partido Reformista Social Cristiano|en|Social Christian Reformist Party}}から出馬。対立候補の{{仮リンク|ドミニカ革命党|es|Partido Revolucionario Dominicano|en|Dominican Revolutionary Party}}の{{仮リンク|フアン・ボッシュ|es|Juan Bosch|en|Juan Bosch|label=フアン・ボッシュ・ガビノ}}を破り勝利した。バラゲール政権のもとではいちおうの安定が回復され、砂糖価格の上昇や外国からの投資、観光が好調で経済はうわむき「ドミニカの奇蹟」と呼ばれた。[[1970年]]、[[1974年]]選挙でも再選。ボッシュ派のドミニカ革命党は選挙を[[ボイコット]]した。
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[[アル・ゴア]]の書『[[不都合な真実]]』では、ドミニカ‐[[ハイチ]]国境でドミニカ側にのみ森林が残っている写真を掲載しており、バラゲールの名は出ていないもののドミニカの森林保護の成功を示している。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
==外部リンク==