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[[File:Kloster Leyre.jpg|right|thumb|「ナバラ王国の心臓」と称えられた[[レイレ修道院]]]]
 
905年に{{仮リンク|サンチョ1世 (ナバラ王)|label=サンチョ1世|es|Sancho Garcés I de Pamplona}}によって[[ヒメノ朝|ヒメネス王朝]]が始まると、イスラーム教徒との間で領土の奪い合いが繰り返された{{sfn|コンラ|2000|pp=57-59}}。耕地が少ないナバラ地方は人口過剰の問題に悩まされていたが、サンチョ1世は8世紀初頭からイスラーム教徒の手にあったリオハ地方を併合して社会・経済基盤を拡充した{{sfn|立石|2000|pp=81-82}}。10世紀半ばには[[レオン王国]]、アラバ領主、[[カスティーリャ王国]]などと婚姻関係を結んでいる{{sfn|バード|1995|pp=45-46}}。10世紀末には{{仮リンク|サンチョ2世 (ナバラ王)|label=サンチョ2世|en|Sancho II of Pamplona}}(在位970年-994年)が娘のウラカ・サンチェスを[[後ウマイヤ朝]]の宰相{{仮リンク|アル・マンスール・ビッ・ラーヒ|en|Almanzor}}に与えて平和を確保しており、アル・マンスールとウラカ・サンチェスの間には後ウマイヤ朝最後の[[アミール]]である{{仮リンク|アブド・アッラフマーン・サンチュエロ|en|Abd al-Rahman SAnchueloSanchuelo}}が生まれている{{sfn|コンラ|2000|pp=62-63}}。パンプローナ王国は首都を持ち司教区を為す主権王国となり、1000年までにはナバラ王国として知られるようになった{{sfn|バード|1995|pp=48-53}}。
 
1004年に即位した[[サンチョ3世 (ナバラ王)|サンチョ3世]](大王)は、キリスト教諸国との政略結婚を繰り返して、カスティーリャ、ラ・リオハ、アラゴン、バスクの諸地域と次々と同盟関係を結んで王国の地位を強固なものとした{{sfn|アリエール|1992|pp=46-50}}{{sfn|ナバラ州政府|2005|p=59}}{{sfn|コンラ|2000|pp=68-69}}。[[ピレネー山脈]]以南([[イベリア半島]])のキリスト教圏の大部分を支配した{{sfn|Collins|1990|p=181}}、イベリア半島におけるキリスト教勢力の「覇権国家」となった{{sfn|立石|2000|pp=81-82}}。サンチョ3世は西ヨーロッパとの経済・文化的交流を活発化させ、サンティアゴの巡礼路の整備と管理に力を注いだ{{sfn|コンラ|2000|pp=68-69}}{{sfn|立石|2000|pp=81-82}}。レコンキスタの過程でキリスト教勢力の軍事力がイスラーム教勢力を上回ったのはこの時期である{{sfn|コンラ|2000|pp=68-69}}。