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=== 近世 ===
[[File:Choensai eishin falconer.jpg|thumb|『鷹匠』[[鳥園斎栄深|鳥園斎 栄深]]画]]
[[武将|戦国武将]]の間で鷹狩が広まったが、特に[[徳川家康]]が鷹狩を好んだのは有名で、単な鷹好きとか慰めの域を越えて、確たる養生法と捉えていた。『中泉古老諸談』によると家康は鷹狩を気分転換の遊芸にとどめず、身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する養生と考えていたことが知られている<ref>宮本義己「徳川家康公と医学」(『大日光』66号、1995年)</ref>。家康には鷹匠組なる技術者が側近として付いていた。鷹匠組頭に伊部勘右衛門という人が[[大御所 (江戸時代)|大御所]]時代までいた。東照宮御影として知られる家康の礼拝用肖像画にも白鷹が書き込まれる場合が多い。[[江戸時代]]には代々の徳川将軍は鷹狩を好んだ。3代将軍・[[徳川家光|家光]]は特に好み、将軍在職中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して[[鳥見]]を設置したり、[[江戸城]]二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことで知られている。家光時代の鷹狩については江戸図屏風でその様子をうかがうことができる。5代将軍・[[徳川綱吉|綱吉]]は動物愛護の法令である「[[生類憐れみの令]]」によって鷹狩を段階的に廃止したが、8代将軍・[[徳川吉宗|吉宗]]の時代に復活した。吉宗は古今の鷹書を収集・研究し、自らも鶴狩の著作を残している。累代の江戸幕府の鷹書は内閣文庫等に収蔵されている。江戸時代の大名では、[[伊達重村]]、[[島津重豪]]、[[松平斉貴]]などが鷹狩[[愛好家]]として特に著名であり、特に[[松平斉貴]]が研究用に収集した文献は、今日[[東京国立博物館]]や[[島根県立図書館]]等に収蔵されている。
 
鷹は奥羽諸藩、[[松前藩]]で捕らえられたもの、もしくは朝鮮半島で捕らえられたものが上物とされ、後者は[[朝鮮通信使]]や[[対馬藩]]を通じてもたらされた。近世初期の鷹の相場は1据10両、中期では20-30両に及び、松前藩では藩の収入の半分近くは鷹の売上によるものだった<ref>秋山高志ほか編 『図録 山漁村生活史事典』 柏書房、1991年、p.52</ref>。