「ナバラ州」の版間の差分

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1305年にはフランス王がナバラ王を兼ねたカペー朝が始まったが{{sfn|立石|2000|p=113}}、やはりフランス貴族が要職を独占したため、1328年にナバラのコルテス(身分制議会)は[[フアナ2世 (ナバラ女王)|フアナ2世]]をナバラ王に選出した{{sfn|立石|2000|p=113}}。フアナ2世の治世の1328年には、王国内でも生産的で開明的だったユダヤ人を迫害し、6,000人を死に追いやった{{sfn|バード|1995|pp=116-120}}。1348年から1349年には[[黒死病]]がナバラ王国にも蔓延し、人口の60%を失った{{sfn|バード|1995|pp=116-120}}。これらのことが重なり、14世紀半ば以降のナバラ王国は国力が弱体化し、独立の喪失に向かい始めた{{sfn|バード|1995|pp=116-120}}。フアナ2世を継いだ[[カルロス2世 (ナバラ王)|カルロス2世]]の治世にはカスティーリャ軍やフランス軍のナバラ王国への侵攻を招いた{{sfn|立石|2000|pp=139-140}}。1379年にはトゥデラ城やエステーリャ城を含む20の砦をカスティーリャ王国に占領され{{sfn|バード|1995|pp=116-120}}、カルロス2世はフランスにあるほぼすべての領地を喪失した{{sfn|立石|2000|pp=139-140}}。
 
1379年には、トゥデラ城やエステーリャ城を含む20の砦をカスティーリャ王国に占領された{{sfn|バード|1995|pp=116-120}}。1418年には[[カルロス3世 (ナバラ王)|カルロス3世]]が[[オリテ]]に{{仮リンク|オリテ王宮|es|Palacio Real de Olite}}を完成させたが、彼が1425年に亡くなった後の王国はもっとも混乱した時代を迎えた{{sfn|バード|1995|pp=121-127}}。1441年に女王の[[ブランカ1世 (ナバラ女王)|ブランカ1世]]が死去すると、共同君主だった夫の[[フアン2世 (アラゴン王)|フアン2世]]は長男[[カルロス (ビアナ公)|カルロス]]に王位を譲らず、1451年にはナバラ王国の貴族間で[[ナバーラ内戦|ナバラ内戦]]が発生した{{sfn|Monreal|Jimeno|2012|pp=10-15}}{{sfn|バード|1995|pp=127-130}}。1479年には近隣のアラゴン王国とカスティーリャ王国が合体してイベリア半島がほぼ統一され、イスラーム勢力化にある地域を除けば、ナバラ王国はスペインでほぼ唯一の独立した王国となった{{sfn|バード|1995|pp=132-135}}。スペイン王国が1492年にグラナダを手に入れると、ナバラ王国の獲得に関心を集中させた{{sfn|バード|1995|pp=132-135}}。
 
=== スペイン王国の中の王国 ===