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'''小原國芳'''(おばら くによし、[[1887年]][[4月8日]] - [[1977年]][[12月13日]])は、[[日本]]の[[教育学|教育学者]]。最後の[[私塾]]創立者で、[[学校法人玉川学園]]の創立者。[[永野修身]]海軍大臣直属海軍教育顧問なども務めた。[[日本基督教団]]の[[クリスチャン]]。
 
==生涯==
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国家を造るのは人であり、国家の存亡にとって教育が一番大切だと考えていた小原は、[[陸軍]]には[[参謀本部]]、[[海軍]]には[[軍令部]]、[[司法]]には[[大審院]]などの最高機関があるように国家を形成する人を造るための最高機関として「教育本部」の設置が望ましいと考えていた。それを実現するために玉川学園と興亜工業大学の創立に尽力した。
 
軍部をはじめとするエリート主義で成り立つ階層主義の人々からの圧力もあったが、[[皇族]]の[[東久邇宮稔彦王]]を筆頭に、[[大日本帝国海軍]]では歴代の[[海軍兵学]]校長経験者をはじめ、[[永野修身]][[元帥]][[海軍大将]]や[[山梨勝之進]]海軍大将などが、[[大日本帝国陸軍]]では[[菱刈隆]][[陸軍大将]]や[[土肥原賢二]]陸軍大将などが小原の考えに共感し、支援していた。
 
[[太平洋戦争]]の敗北については「[[教育者]]を冷遇し、試験と点数と、詰め込み棒暗記と、肩書と出世とのみ重視した[[日本]]の教育が、自由と大胆と、[[創造]]と進取と、[[プロジェクト]]と個性尊重とを大事にした[[アメリカ]]の教育に全く負けた」と明治以来の教育政策(人づくり)の問題が敗戦に至った原因であると回想している。
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*[[全人教育]]([[漢学]]・[[国学]]・[[洋学]])
*[[藩校]]・[[私塾]]・[[寺子屋]]
*[[海軍兵学校]]
*[[成城学園]]
*[[玉川学園]]
*[[千葉工業大学]]
 
 
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