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貴妃(後の[[明達皇后]])の三女として生まれた。[[大観 (宋)|大観]]2年([[1108年]])7月5日、衍福公主の位を授けられた。のち、衍福帝姫の位を改授された。[[宣和]]6年(1125年)11月、'''洵徳帝姫'''の位を改授された。同月、田丕に降嫁した。
 
[[靖康の変]]の際、徽宗や[[欽宗]]らと共に[[金 (王朝)|金]]軍に拉致され、多くの辱めを受けて妊娠し。『靖康稗史箋證』によれば、金が北帰を開始した直後の1127年3月29日、馬から落ちて流産している<ref>同時に、[[柔福帝姫]]や[[高宗]]の妃である[[憲節皇后]]、趙楷の妃[[朱鳳英]]らも流産している。『靖康稗史箋證』「二十九日,邢朱二妃、二帝姫以墜馬損胎,不能騎行。」</ref>。完顔設野馬([[完顔宗翰]]の長男)は富金を大いに気に入り、[[完顔宗望]](富金の同母姉・[[趙福金]]の後夫)を仲人にして、捕虜となった徽宗と交渉した。徽宗が「富金は既婚である。我が国は節義を重んじるが、貴国は違うのか。」と言って反対した。宗翰は激怒して「詔令によってお前たちはもう捕虜となった。」と言った。徽宗も激怒して「上には天国があり、下には地府がある。人間には息女と嫁がある。」と言ったが、宗翰に叱りつけられた。
 
連行の途中、設野馬は大がかりな酒宴を設け、富金を側室としたことを公表した。金に到着後、設野馬が[[呉乞買|太宗]]に改めて願い出て、富金は次婦(妾妻)の位を授けられた。『三朝北盟会編』(1162年完成)によると、同書の頃まで富金は金で健在であった。
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* 『靖康稗史箋證』
* 『皇十四女特封衍福公主制』
== 脚注 ==
 
<references />
{{デフォルトソート:ちよう ふきん}}
[[Category:宋の徽宗の皇女|ふきん]]