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== 経歴 ==
幼いときに[[青蓮院]]に入寺し、[[仁安 (日本)|仁安]]2年([[1167年]])[[天台座主]]・[[明雲]]について受戒。[[建久]]
天台座主として法会や伽藍の整備のほか、政治的には兄・兼実の孫・[[九条道家]]の後見人を務めるとともに、道家の子・[[藤原頼経]]が[[征夷大将軍|将軍]]として[[鎌倉]]に下向することに期待を寄せるなど、公武の協調を理想とした。[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の挙兵の動きには[[西園寺公経]]とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。だが、[[承久の乱]]によって後鳥羽上皇の配流とともに兼実の曾孫である[[仲恭天皇]](道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、[[鎌倉幕府]]を非難して仲恭帝復位を願う願文を納めている<ref>『[[鎌倉遺文]]』3202号[[貞応]]3年正月「慈円願文」</ref>。
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