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[[ファイル:Pentel black Eraser pray for TOHOKU.jpg|thumb|商品価格に寄付金(義援金)が含まれる例]]
[[律令制]]以前から日本には、[[神]]の代理人である首長に[[初穂料]]、初尾料として収穫物・生産物を捧げる習俗があった{{sfn|桜井 |2011|pp=15-25}}。首長が[[大和朝廷]]に服属したのちには、祭祀の最高統括者である[[天皇]]へ初穂料を納める形となり、律令制以後は[[律令制#税制・租庸調|祖]]や調に変化した。10世紀の税制改革の結果、神への寄進という名目は無くなり地税に一本化されたが、その後も「[[上分]]」と呼ばれる神仏への寄進は行われた{{sfn|桜井 |2011|pp=15-25}}。
 
[[奈良時代]]の頃から、利水・治水や橋・道路建設などの公共事業のため、仏教僧が民間から'''奉加'''(ほうが)と呼ばれる寄付を集める[[勧進]]が行われていた(奉加者一覧が「[[奉加帳]]」)。[[中世]]は自力救済の時代であったが、民衆の間に[[頼母子講]]などの相互扶助が始まった。これは集団で金銭を貯蓄し貧困者などに順番で供与するという、寄付と同様の機能を持った相互扶助であった。[[近世]]に入っても相互扶助の伝統は継承された。
 
また、中世には「金持ちは道徳的に優れている、また優れていなくてはいけない」という「有徳思想」が生まれ、[[有徳人]]と呼ばれた富豪たちは富を社会に還元することを期待された{{sfn|桜井 |2011|pp=11-12,39-54}}。有徳人が供出した富を有得銭・有福銭と呼ぶが、米などの現物で充てる場合もあった。有得銭は主に寺社への[[喜捨]]として供出されたが、[[鎌倉時代]]以後は[[飢饉]]の救済など、より世俗的な用途に使われるようになった。
[[江戸時代]]の大坂(大阪)には、「きたのう貯めて、きれいに使う」という精神が美徳としてあった。そのため、大阪の八百八橋は皆町人の寄付で作られたといわれる位である。
 
[[江戸時代]]の大坂(大阪)には、「きたのう貯めて、きれいに使う」という精神が美徳としてあった。そのため、大阪の八百八橋は皆町人の寄付で作られたといわれる位である。
この「きたのう貯めて、きれいに使う」の言葉の意味は、一言で言えば、商売上の勘定と、公共への支出の勘定は別であるという意味である。つまり、商売上はきたないといわれる程に無駄を省いて、倹約に倹約を重ねて資本を蓄えるのが商人の美徳だが、しかし、商売から離れれば、人として、世のためや人のためにはできるだけの事をやるのが美徳であるとの価値観のことである。
 
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{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author = [[桜井英治]] |title = 贈与の歴史学:儀礼と経済のあいだ |date = 2011 |publisher = 中央公論新社 |series = 中公新書 |isbn = 9784121021397 |ref = harv }}
 
== 関連項目 ==