「中世フランス語」の版間の差分

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'''中世フランス語'''(ちゅうせいふらんすご、{{lang-fr|moyen français}})は[[フランス語]]の歴史的区分の一つであり、[[中世後期]]にあたる1340年頃から[[近世初期]]の1611年までのフランス語を言う<ref>Larousse, v.</ref>。この時期は以下のような変化の起こった過渡期であった。
* フランス語が、競合関係にあった他の[[オイル諸語]]とはっきり区別されるようになった。なお、オイル諸語は[[古フランス語]](ancien français)の概念に包括されることがある。
* フランス語が、[[ラテン語]]・オイル諸語・[[オック語|オック諸語]]に替わってフランス王国における公用語として強制されるようになった。
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==歴史==
中世フランス語に見られる、[[古フランス語]]からの最も重要な変化は(すでに何世紀にもわたって進行中であった)名詞の[[曲用]]体系の完全な消失である。主格と[[斜格]](主格以外の格)にはもはや区別がなくなり、複数は単に語末に s を付すことで示されるようになった。この変化は、文法機能がもっぱら語順によって示されるようになったことと表裏一体であるが、これらはいずれも現代フランス語の統辞法とおおむね通じている(もっとも16世紀までは動詞が文中の第2位に位置するいわゆる[[V2語順]]が存在していた)<ref>Larousse, xxvi.</ref>。
 
エリート層にあっては依然としてラテン語が教育や文書行政の言語であった。この状況が変化するのは1539年に[[ヴィレル・コトレ布告|ヴィレル=コトレ勅令]]が発され、国王[[フランソワ1世]]が法律の条文に用いられる言語をフランス語のみに定めて以後のことである。この時フランス全土では[[ロマンス語]]のさまざまな地域変種がいまだ隆盛を誇っていた。南仏では[[オック語|オック諸語]]が支配的であり、中東部では[[フランコ=プロヴァンス語]]が優勢であった。また、北フランスでは中世フランス語以外のオイル諸語もひきつづき話されていた。現代の言語学からは、ヴィレル=コトレ勅令により行政上の言語として強制された中世フランス語は、他の方言に対して(淘汰の過程で)勝利を収めた一方言というより、方言としての特徴的な要素を削ぎとられた「一般オイル語」であるとみなされている。