「山科勝成」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2015年9月}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 山科勝成
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| 子 =
}}
'''山科 勝成'''(やましな かつなり{{要出典|date=2016年1月}}、生没年不詳)は、[[16世紀]]頃に存在したとされる人物。元は'''{{要出典|範囲=ジョバンニ|date=2015年9月}}・ロルテス'''という名の[[イタリア人]]([[ローマ人]])が[[蒲生氏郷]]によって士分に取り立てられ「'''山科羅久呂左衛門勝成'''」と改名したというが、実在伝えられる。一方で登場する史料の信頼性に疑問が持た呈さ、ひいは山科勝成なる武士の実在につても否定的な見解がある。
 
== 生涯動向 ==
蒲生家伝来とされる史料「御祐筆日記抄略」によれば、[[天正]]5年(1577年)に「ロルテス」と名乗るローマ人が紹介状を携えて蒲生氏郷に召し抱えを求めてきた。紹介状には、ロルテスは軍人にして兵法はもとより天文・地理も極めて「[[張良]]、[[孔明]]をも凌ぐ」と記され、氏郷は家老一同との会議においてその可否を諮る。喧々諤々の会議となったが、最終的には扶持を与えて召し抱えることに決まり、ロルテスは小銃や大砲など武器の製作に従事することになり、名も「山科羅久呂左衛門勝成」と改めた<ref name="tsuji">辻(1942)pp.250-262</ref>。
{{要出典|範囲=[[マルタ島]]を根拠とする[[キリスト教]]騎士団のひとつである[[聖ヨハネ騎士団]]([[マルタ騎士団]])に所属していたとされる(騎士団を正式に脱退したのかは不明)。|date=2015年9月}}正確な生い立ちは不明。
 
以後、勝成は氏郷の麾下で各戦役に参加、[[小牧・長久手の戦い]]における[[峯城]]攻略戦では5番首を挙げた<ref name="tsuji" />。さらに[[加賀野井城]]攻略戦では小山から大砲を操って落城へと追い込み、また逃亡を図る城兵の殲滅にも加わり、ひとりを斬り伏せ、ひとりの首を取った<ref name="tsuji" />。それから7日後、勝成は氏郷の家臣12人と共に武器の買い付けのためローマへ遣わされる。2年半を経て、一行は彼地の「大僧正」より贈られた一巻の書物と、買い入れた鉄砲30挺を携えて帰国。大いに満足した氏郷は、勝成に500石を加増した<ref name="tsuji" />。以降、氏郷は他の者を遣わしながらローマとの通交を続けていく<ref name="tsuji" />。
{{要出典|範囲=[[宣教師]]・[[グネッキ・ソルディ・オルガンティノ|オルガンティーノ]]と共に来日し、[[伊勢国|伊勢]]亀山城主の[[関一政]]に仕え、|date=2015年9月}}後に関一政が寄騎(付属)していた[[キリシタン大名]]の[[蒲生氏郷]]に「外国の武士」として召抱えられる。氏郷に日本名を命名され、山科羅久呂左衛門勝成と称した。[[鉄砲]]や洋式武装、大筒など兵器の扱いに長けており、特に[[豊臣秀吉]]による[[九州征伐]]において、[[島津氏|島津]]方の岩石城攻めに参加した際、馬に曳かせて運搬した[[石火矢]]([[大筒]])で城壁を撃ち壊し、{{要出典|範囲=真っ先に|date=2015年9月}}攻め込んだとされている。
 
帰国後、再び氏郷の麾下に入った勝成は、豊臣秀吉による[[九州征伐]]の支戦・巌石城攻略戦においてやはり大砲を用いて城壁を破壊し、城方を壊滅に追い込んだ<ref name="tsuji" />。さらに[[小田原征伐]]では鉄[[棍棒]]を手に敵の先陣へ突入し、小川新左衛門なる者を討ち果たした<ref name="tsuji" />。
{{要出典|範囲=氏郷の死後に日本を去ったとも、氏郷の命で使節として遣欧の途上で殺害された、ともされているが詳細は不明。|date=2015年9月}}
 
これを最後に「御祐筆日記抄略」から勝成の動向は消える<ref name="tsuji" />。[[外務省]]が1884年に編纂した『外交志稿』によれば、[[文禄]]元年(1593年)、氏郷は朝鮮に渡るため軍艦の建造を望み、西洋から船大工の調達を図って勝成らを派遣したが、遣欧船はその途上で難破して安南国([[ベトナム]])に漂着し、勝成は現地人に殺害されたという<ref>『外交志稿』pp.430-431</ref>。
 
== 資料・研究 ==
「山科勝成」の名は外務省編纂の『外交志稿』で世に知られ、次いで1893年に渡辺修二郎が著した「世界に於ける日本人」で取り上げられたことにより、その知名度を上げた<ref name="tsuji" />。『外交志稿』は参考史料を『蒲生家記』としており、渡辺は『蒲生家記』ほか数篇の史料を挙げたが、学術的に知られた『蒲生家記』に山科勝成および蒲生氏郷による遣欧使節の話は載っておらず、その情報の出所は不明瞭だった<ref name="tsuji" />。その後、廃嫡された蒲生氏郷の子・[[蒲生氏俊|氏俊]]から子孫に伝えられたとされる<ref name="watanabe">『異説日本史・人物編(第5巻)』pp.369-376</ref>写本「蒲生氏郷事跡・御祐筆日記抄略」の存在が明らかとなった<ref name="tsuji" />。
「山科勝成」の名は、[[外務省]]が[[明治]]17年([[1884年]])に編纂した『外交志稿』の[[ヨーロッパ]]関連の文章に登場する。それによると、[[天正]]12年([[1584年]])6月に蒲生氏郷の命により、遣使として[[ローマ]]に派遣されたという。その後、氏郷は更に3度の使節をローマに派遣したとされ、以上の記述の出典を「蒲生家記」に拠ったとしている。だが[[東京大学史料編纂所|帝国大学史料編纂掛]]の調査によると、そもそも蒲生氏郷がローマに遣使を送ったという事自体が確認できず、氏郷のローマ遣使は史実において否定される事となった。
 
「御祐筆日記抄略」を調査した歴史学者・[[辻善之助]]は、複数の観点からロルテス=山科勝成の実在性、そして蒲生氏郷によるローマ遣使の史実性を否定している<ref name="tsuji" />。
その後、[[1904年]](明治37年)10月発行の雑誌『[[太陽 (博文館)|太陽]]』において、かつて同説を著書「世界に於ける日本人」で紹介していた渡辺修二郎の論文「蒲生氏郷羅馬遣使説の出處」で、[[蒲生氏俊]]<ref>蒲生氏郷の長男。</ref>の末裔が所蔵していたとする「'''御祐筆日記抄略'''」<ref>正確にはその写本とされるもの。</ref>が、前述の「蒲生家記」の原書であると紹介された。「御祐筆日記抄略」は[[寛永]]19年([[1642年]])蒲生家旧臣の[[大野弥五左衛門]]が記したものであるとされ、では山科勝成の活動がいくつか記されている。
#ロルテスの身元が甚だ不明瞭で、蒲生氏郷に紹介状を書けるほどの人物が誰であるのかも記されていない。
#学術的に知られた『蒲生家記』と照合したとき、山科勝成とローマ派遣についての記述だけが浮いた存在である。
#これほど活躍した武将が、まして大砲を操るという極めて珍しい戦法を用いているのに、他の歴史文書に一切記録されていない。
#加賀野井城の攻城戦から7日後にはローマへ向けて出立しているのはあまりにも急である。どのような船で、誰の案内で行ったのかも判然としないし、現地の話も全く書かれていない。また、他の大名からの遣欧使節は出発から帰国までに7~9年を要しているのに対し、氏郷からの使節は7年で4往復もしている点も甚だ不可思議である。
#文章全体に時代が新しい語が散りばめられており、寛永19年(1642年)成立の文書であるという点にも疑いを持たざるを得ない。
以上の点から辻は「御祐筆日記抄略」について、蒲生家文書にロルテス=山科勝成という架空の存在を付け足したものであるとし、勝成の通称「羅久呂左衛門」も、[[伊達政宗]]から発せられた[[慶長遣欧使節]]の長であった[[支倉常長]]の通称「六郎右衛門」のもじりではないかと推測している<ref name="tsuji" />。また、ローマへの使節については「全くの絵空事」とし、当初その史実性が疑問視されながら、彼地において様々な史料が発見され事実確認に至った慶長遣欧使節とは、派遣元に史料が残されていないという点で事情が大いに異なるとも指摘している<ref name="tsuji" />。
 
「御祐筆日記抄略」を最初に入手した渡辺修二郎は、「氏郷がローマ人を軍人として用いたのは事実であろう」とし、また「当時といえども2年ないし3年半でヨーロッパとの往復は全く不可能ではない」としているが、その一方でやはり現地の様子についての報告が全くないことを訝しみ、自身の調査でもローマに氏郷からの使節派遣を裏付ける史料が全く見つからなかったとしており、遣使があったとしても[[フィリピン]]、[[マニラ]]、[[ゴア州|ゴア]]など東南~南アジアへの通商団であって、書物を贈られたローマの「大僧正」もそうした土地における宗教者だったのではないかと推測している<ref name="watanabe" />。
渡辺、また歴史学者の[[辻善之助]]は、文中に見られる近代的な単語や、他史料からの傍証が皆無であるなどという点から「御祐筆日記抄略」の記述内容を史料価値の低いものとみなし、南蛮人の武士がいた可能性までの言及に留め、ローマ遣使を含めて山科勝成の実在性を否定的に見ている。
 
== 脚注 ==
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== 関連作品 ==
* [[太田ぐいや]]+[[幸田廣信]][[蒼眼赤髪 ~ローマから来た戦国武将~]]』[[双葉社]]
 
== 参考文献 ==
* 渡辺修二郎「蒲生氏郷羅馬遣使説の出處」『異説日本史』第五巻(雄山閣、1931年)
* 辻善之助「蒲生氏郷の羅馬遣使について」『増訂・海外交通史話』(内外書籍、1942年)
* [[外務省]]記録局 編『外交志稿』巻之五(外務省、1884年)
 
== 関連項目 ==
* [[三浦按針]] - [[徳川家康]]によって士分に取り立てられたイングランド人。
* [[騎士]]
* [[弥助]] - [[織田信長]]に召し抱えられたとされる元黒人奴隷。
 
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