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{{基礎情報 君主
{{出典の明記|date=2016年1月6日 (水) 10:16 (UTC)|ソートキー=人0000年以前没}}
| 人名 = ミトラダテス
'''ミトラダテス2世'''('''Mithradates II'''、在位:[[紀元前2世紀|紀元前123年]] - [[紀元前1世紀|紀元前88年]]/[[紀元前1世紀|紀元前87年]])は、[[パルティア|アルサケス朝パルティア]]の王。[[フラーテス2世]]の治世以来混乱していた国内政治を安定させてパルティアの国力を増大させた。'''大王'''(バシレウス・メガス)、及び'''諸王の王'''(バシレウス・バシレオン)を名乗っている。しばしば'''ミトリダテス'''と記され、現地語では'''ミフルダート'''と呼ばれた。
| 各国語表記 = مهرداد‎‎
| 君主号 = ミトラダデス2世
| 画像 =Drachma Mithradates II.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = ミトラダデス2世のコイン
| 在位 = [[紀元前3世紀|紀元前124年/123年]] - [[紀元前3世紀|紀元前88年/87年]]
| 戴冠日 = [[紀元前3世紀|紀元前124年/123年]]
| 別号 =
| 全名 =
| 配偶者1 = アリヤザテ(アウトマ)
| 配偶者2 =
| 配偶者3 =
| 子女 =
| 王家 = アルサケス朝
| 王朝 =
| 父親 = [[アルタバヌス1世]]
| 母親 =
| 出生日 =
| 生地 =
| 死亡日 = [[紀元前3世紀|紀元前88年/87年]]
| 没地 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
}}
 
'''ミトラダテス2世'''('''Mithradates II'''、[[ペルシア語]]: مهرداد‎‎ Mehrdād [meɦrˈdɔːd]; 在位:[[紀元前2世紀|紀元前124年/123年]] - [[紀元前1世紀|紀元前88年]]/[[紀元前1世紀|紀元前87年]])は、[[パルティア|アルサケス朝[[パルティア王国]]の王。[[フラーテス2世]]の治世以来混乱していた国内政治を安定させてパルティア王国最盛期の王で、メソポタミアを奪回し、アルメニア王でも影響力を増大させもった。紀元前96年には初めてローマと接触した。故に'''大王'''(バシレウス・メガス)、及び'''諸王の王'''(バシレウス・バシレオン)を名乗っていると呼ばれたしばしば'''ミトリダテス'''と記され、現地語る。別号では'''ミフダートサケス8世'''と呼ばれたいう<ref>合阪 1998,p439</ref>
== 来歴 ==
[[アルタバヌス1世]]の息子として生まれ、父の跡を継いでパルティア王となった。ミトラダテスは、フラーテス2世の治世以来続いていた[[遊牧民]]の圧力を外交手段によってかわすことに成功した。彼は[[サカ|サカ人]]を[[アラコシア]]と[[ドランギアナ]]に誘導するとともに、その地に彼らの支配する領地を与えて従属王国を作りサカ人を戦力に組み込んだ。これらの処置は後の[[インド・パルティア王国]]の成立へと繋がっていく。
 
== 来歴生涯 ==
一方で西方で独立を図っていた[[バビロニア]]総督[[ヒメロス]]や、それに対抗して同じく南部バビロニアで独立国家[[カラケネ王国]]を建設していた[[ヒスパネシオス]]に対応した。ミトラダテス2世の圧力を受けたヒスパネシオスは抵抗を諦めて降伏し、以後カラケネ王国はパルティア領内の従属王国として存続することになる。一方でヒメロスは排除された。
[[アルタバヌス1世]]の息子として生まれる。
 
[[紀元前123年]]頃、父のあとを継いでパルティア王となった。ミトラダテス2世が最初に手掛けたのは、[[バビロニア]]の鎮圧と[[カラケネ王国]]の打倒であった。紀元前121年/120年のヒスパオシネスの銅貨に、ミトラダデス2世の称号と肖像が刻まれているのは、その計画が成就したことを証明している。<ref>デベボイス 1993,p39</ref>
国内を安定させたミトラダテス2世は[[アルメニア]]方面への勢力拡大を企図し、アルメニア王[[アルタバスデス1世]]を攻撃して降伏させた。その際アルメニアの王子[[ティグラネス2世]]を人質とし、[[紀元前1世紀|紀元前95年]]にアルタバデスが死去するとティグラネス2世を帰国させてアルメニア王とし、ティグラネス2世の娘アリヤザデを妻として迎え入れてアルメニアと姻戚関係を結んだ。更に彼の治世から[[古代ローマ|ローマ]]との接触が本格化した。[[紀元前1世紀|紀元前92年]]、ローマの将軍[[スッラ]]との間で、ミトラダテス2世の部下との会談が持たれている。ただしこの時どのような話がなされたのかは知られていない。
 
ミトラダデス2世の治世では陸上交易が発達し、パルティア王国に富をもたらした。中国の歴史書『[[史記]]』に記されている安息国(パルティア王国)に[[張騫]]が訪れたのも、ミトラダデス2世の時代であった。パルティア王国の首都に訪れた張騫一行は非常に丁重に迎えられ、帰るときはパルティアの使節が[[ダチョウ]]の卵を持ち、奇術師を伴って同行した。<ref>デベボイス 1993,p39</ref>
ミトラダテス2世の治世末期には[[ゴタルゼス1世]]が「諸総督の総督」を名乗ってバビロニア地方を支配下に収めるなどしているが、ミトラダテス2世とゴタルゼス1世の関係ははっきりしない。
 
ミトラダデス2世は領土拡大に伴い、属州に法外な権力を与えることになり、「諸総督の総督」と呼ばれた[[ゴタルゼス1世|ゴタルゼス]]のような権力者も現れるようになる。<ref>デベボイス 1993,p41</ref>
ミトラダテス2世は「''諸王の王 偉大な アルサケス 善なる 神の化身 ギリシア愛好者''」など、'''諸王の王'''(バシレウス・バシレオン)を含む称号を用いたコインをいくつも残している。この称号を持って[[アケメネス朝]]を意識したものであるとする説も強いが、諸王の王というフレーズ自体はかつてのセレウコス朝の王達も用いており、また「ギリシア愛好者」を称号としたコインも多く残されている。そのため、単純にアケメネス朝のみを意識した称号であるとはいえないとする説もある。
 
この頃、パルティア王国東部に侵入していた[[サカ族]]の中心勢力はすでに疲弊し、大半が南に方向を転じていたため、ミトラダデス2世は失地を次々と回復していくことができた。また、[[アルメニア王国]]にも兵を進め、アルメニア王子[[ティグラネス2世|ティグラネス]]を人質にとり、長年にわたってパルティアの影響下に置くことに成功した。[[紀元前94年]]頃、ティグラネスの父であるアルメニア王[[アルタウァスデス1世|アルタバスデス]]の死に伴ってティグラネスは故国へ返され、パルティア軍に支援されてアルメニア王位に就いた。この際パルティアは「七十か所の渓谷」をうけとった。<ref>デベボイス 1993,p40-41</ref>
ミトラダテス2世の治世末期からの政治混乱で、ミトラダテス2世死後のパルティアの政治情勢ははっきりしない事が多い。ゴタルゼス1世はパルティア領のうちバビロニアやメディアに勢力を持っていたが、東部では[[オロデス1世]]が勢力を拡張した。両者ともミトラダテス2世の生前から勢力を拡張しはじめており激しく争った。
 
こうしてアルメニアと同盟を組んだことにより、アルメニア王国の脅威がなくなったため、ミトラダデス2世は[[セレウコス朝]]侵攻に専念することができた。パルティア軍の侵攻を受けたセレウコス朝の[[アンティオコス10世エウセベス・フィロパトル]]は[[デメトリウス3世エウカエロス]]と[[プトレマイオス8世ラティルス]]とともに応戦したが、その戦いで落命した。<ref>デベボイス 1993,p42</ref>
 
[[紀元前92年]]、[[共和制ローマ]]の[[カッパドキア]]総督[[ルキウス・コルネリウス・スッラ]]がアリオバルザネスをカッパドキアの王に復位させると、ローマ国境に迫ったパルティア軍はローマと交渉するために、オロバズスという者を使者としてスッラのもとへ送った。しかし、オロバズスは友好的な軍事同盟を要求したはずであったが、ローマ側からは貢納国になる申し出ととらえられてしまい。パルティアはローマの従属国となってしまう。後に大失態を犯したオロバズスはパルティアの威信を傷つけたという罪で処刑された。<ref>デベボイス 1993,p42-43</ref>
 
[[紀元前88年]]、セレウコス朝内でデメトリウス3世エウカエロスと[[フィリッポス1世フィラデルフォス|フィリッポス・エピファネス・フィラデルフォス]]とで内紛がおこり、フィリッポスはベロエア([[アレッポ]])で包囲された。そのときベロエアの君主ストラトは親パルティア派である[[アラブ人]]の暴君アジーズ(おそらくエメサすなわちホムスの統治者)とミトラダテス・シナケス(メソポタミア北部のパルティア人総督)に助けを求め、逆にデメトリウス3世エウカエロスを包囲して降伏させた。紀元前87年、捕虜となったデメトリウス3世エウカエロスはミトラダデス2世の面前に引き出されたが、ミトラダデス2世は彼を厚遇した。ミトラダデス2世はその後まもなく亡くなった。当時、ミトラダデス2世が統治していた領土はイランと[[クルディスタン]]と[[メソポタミア]]北部であり、バビロニアは総督であったゴタルゼス1世が独立して統治していた。<ref>デベボイス 1993,p44</ref>
 
==妻==
*アリヤザテ(アウトマ)…アルメニア王[[ティグラネス2世]]の娘
 
==脚注==
<references />
 
==参考資料==
*[[ニールソン・C・デベボイス]](訳:[[小玉新次郎]]、[[伊吹寛子]])『パルティアの歴史』([[山川出版社]]、[[1993年]]、ISBN 463465860)
*[[ポンペイウス・トログス]] [[ユニアヌス・ユスティヌス]]抄録(訳:[[合阪學]])『西洋古典叢書 地中海世界史』([[京都大学学術出版会]]、[[1998年]]、ISBN 4876981078)
 
{{先代次代|[[パルティア王国]]の君主|[[紀元前2世紀|前124年/123年頃]] - [[紀元前2世紀|前88年/87年]]|[[アルタバノス1世]]|[[ゴタルゼス1世]]<br/>[[オロデス1世]]}}
 
[[Category:アルサケス朝の君主|みとらたてす2せい]]