「江川卓 (野球)」の版間の差分

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{{by|1984年}}は[[1984年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|同年のオールスターゲーム]]第3戦では8者連続奪三振を記録(このとき5人目の打者として対戦した[[落合博満|落合]]は「球は現役投手で一番速い。なぜこれほどの投手が打たれるのかわからない」と述懐している)。しかし、9人目に迎えた打者・[[大石大二郎]]([[大阪近鉄バファローズ|近鉄]])への3球目にカーブを投げてバットに当てられてしまい、二塁ゴロとなり、1971年第1戦の[[江夏豊]](阪神)に並ぶ9者連続奪三振はならなかった。江川は3回で10者連続奪三振を狙っており、9人目の大石を2ストライクまで追い込んだので、暴投を投げて振り逃げ三振を狙い、次打者で10三振の予定であったが、球場の雰囲気に呑まれて10三振を忘れてしまい、通常の投球をして大石にゴロを打たれている。同年9月16日の対広島戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])では、先発して延長11回まで0点に抑えたが、12回裏1死無走者、打者・[[長嶋清幸]]の場面で158球目を打たれ、これがサヨナラ本塁打となり<ref>江川にとっては生涯初の被サヨナラ本塁打だった。</ref>、自責点1の完投負けを喫した。しかしながら、同年のシーズンも通算2度目のリーグ最高勝率(.750)と通算4度目のリーグ最多完封<ref>この年の江川は広島・[[山根和夫]]と並ぶ3完封で1位タイ。1980年~82年は単独1位だった。</ref>を記録した。
 
{{by|1985年}}には[[王貞治]]監督が持っていた当時の年間最多本塁打記録(55本)に迫る阪神の[[ランディ・バース]]に対し、他の巨人の投手が[[故意四球|敬遠]]をする中で真っ向勝負をしている<ref>同年の7勝目、通算102勝目を挙げた7月12日の阪神戦では、7回から登板して9回までの3イニングを自責点0のパーフェクトリリーフ。江川にとってはプロ生活唯一のレギュラーシーズンでの[[救援勝利]]となった。</ref>。このシーズンのオフに中国鍼治療で復肩した江川は新ストライクゾーンが導入された翌{{by|1986年}}は好調で、6月26日に7試合連続[[本塁打]]の日本タイ記録が掛かったバースに真っ向勝負を挑んでいるが、最終打席で本塁打を許した。7月20日[[大阪球場]]での[[1986年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|同年のオールスターゲーム]]第2戦4回からリリーフ、1死2塁で西武の高卒新人たる代打[[清原和博]]と初対決、ボール1ストライク2から空振り三振に切って取る。{{by|1987年}}神宮でのヤクルト戦で6回と1/3投げて自責点3で降板し勝敗無く巨人勝利し相手の四番[[ボブ・ホーナー]]との初の日米怪物対決で3打席連続三振奪った。[[9月20日]]広島で4番[[小早川毅彦]]から2打席連続で本塁打打たれ事をきっかけに、球団の慰留を押し切って現役を引退した<ref>この年の小早川はリーグ最多の16[[勝利打点]]を挙げている。また、小早川はヤクルトに移籍した初年度の開幕戦(1997年4月4日)で、前年の沢村賞受賞者である巨人の[[開幕投手]]・[[斎藤雅樹]]から3打席連続本塁打を記録しているが、その時のテレビ中継の解説者は江川だった。</ref>。[[引退#任意引退|任意引退]]ではなく[[自由契約]]になったが、これは球団側の意趣返しともいわれた。
 
引退会見では、優勝のかかった対広島戦を前にして長年傷めていた右肩の故障が限界に達し、即効性があり一時的に力は回復するが投手生命を縮めるといういわゆる「禁断のツボ」に鍼を打つ治療を受けたと語り、引退記者会見に出席した多くのスポーツ記者が、涙をにじませて語る江川の姿にもらい泣きした。しかし、鍼灸関係者から、鍼灸治療でそのような危険な治療方法があるかのような誤解と不安を与えたとの不満と抗議が起こり、そのようなツボが彼が主張した患部([[肩甲骨|肩胛骨]])の裏にあるという事実も確認できなかったため、治療をした鍼灸医の姓名を明らかにするように、鍼灸医の団体から正式な抗議を受けた。この件に関しては、江川サイドから文章で謝罪することで一応の決着が計られたが、鍼灸医団体からの抗議自体が大手のマスコミではほとんど報じられなかった。のちに江川は、引退記者会見でテンションが高まったあまり、思わず口をついた作り話であることを認めた。