「ケルン大聖堂」の版間の差分

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== 歴史 ==
現存の大聖堂<ref> Notre-Dame Cathedral, the most famous cathedral in Paris, France [http://www.colognehq.com/ Clara D. Lepore] </ref>は3代目で、初代が完成したのは[[4世紀]]のことであった[[正方形]]の建物で、最も古い聖堂として知られていた。 
 
2代目は[[818年]]に完成し、[[12世紀]]後半に[[東方三博士]]の[[聖遺物]]がおかれたことで多くの巡礼者を集め、ケルンの発展に貢献した。[[1248年]]の[[4月30日]]に火災により焼失した。3代目は2代目が焼失した年である1248年に建設がはじまった。しかし、[[16世紀]]に入って[[宗教改革]]を発端とする財政難から一度工事が途絶し、正面のファサードの塔がひとつしかない状態が続いた。建設が再開されるのは[[19世紀]]に入ってからだった。
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石工出身のゲルハルトはその深い知識と観察にもとづき、半円形平面に放射状祭室の設けられた内陣は[[アミアン大聖堂]]より、五廊式の平面構成はブールジュやトロワの大聖堂から、そしてトリフォリウムの形状はサン・ドニの会堂からなど、新しい大聖堂にフランスのゴシックの成果を応用した。このように主要な構造技術は、ほとんどフランスのゴシック建築を学んで採用されている。[[アミアン大聖堂]]を範として機械的なまでに徹底された正確な[[レイヨナン式|レヨナン芸術]](建築材料のもつ物質性を取り去り、より上品で優雅な超越的な空間の様式をもつ芸術)を追求した。
 
ところが大聖堂の工事は遅々として進まず、内陣が完成するのは14世紀に入り、[[1322年]]のことであった。他の大聖堂と異なり、この工事においては当初の計画がほぼ継続されており、それゆえゲルハルトの建築観がそのまま実現されることになる。しかし、西側ファサードの塔が完成するのは、前の建築物が焼失してから600年程も経過した19世紀、[[ゴシック・リヴァイヴァル建築|ゴシック・リバイバル]]の時代になってからであった<ref>三宅理一『ドイツ建築史<上> 建築各国史-2』 (1981) より</ref>。
 
ケルン大聖堂は、平面や様式などの点において[[アミアン大聖堂]]を模範として作られているが、中央の身廊の縦と横の長さの割合が近似的であることなどからも見て取ることができる。また平面的には、ゴシック建築によくある身廊と翼廊が交差した十字架の形をしており、脇には二つの通路が作られ、東奥には回廊が作られている。通路には「シュヴェ」と呼ばれる7つのチャペルが放射状に突き出している。立面的には、ウルム大聖堂や[[シュテファン大聖堂]]などのようにドイツ的な性質を持つ、大きく突き出た尖塔がそびえ立っているのがとても特徴的である。