削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
2行目:
 
== 来歴 ==
[[下関市立下関商業高等学校|下関商業]]を経て[[明治大学]]へ進学し、[[捕手]]として東京六大学リーグで活躍した。[[1956年]]に[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]の監督に就任。前々年に96敗、前年に99敗した弱体チームに自らの出身校である[[明治大学]]から[[秋山登]]、[[土井淳]]、[[岩岡保宏]]、[[黒木弘重]]、[[沖山光利]]の「明大五人衆」を入団させたがこの年も最下位に終わり、[[1957年]]と[[1958年]]も最下位に沈み結局3年連続で最下位(チームは5年連続最下位)から浮上させれずとなりこの年で辞任した。
 
のちに[[日立製作所]]の監督を務め、[[1975年]][[1月31日]]に死去した。
 
成績こそ3年連続最下位に終わったが、「明大五人衆」や同じ[[明治大学]]出身の[[近藤和彦]]、或いは[[鈴木隆 (投手)|鈴木隆]][[島田源太郎]]を使い続けるなど[[1960年]]の大洋日本一の礎を築いた。[[1957年]][[7月7日]]の[[読売ジャイアンツ]]戦(第1試合)で[[権藤正利]]が28連敗でストップした勝利を挙げた際は『自分のことのように嬉しい』と喜ぶなど人格も優れていたが、勝負師としては人が好すぎたと当時の新聞には記されていた。
 
=== 背番号 ===