「崔孝芬」の版間の差分

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[[531年]]([[普泰]]元年)、[[南陽郡]]太守の趙脩延が荊州城を襲って占拠し、荊州刺史の[[李エン之|李琰之]]を捕らえ、梁軍を招き入れた。孝芬は[[衛将軍]]・荊州刺史に任じられて、尚書南道行台を兼ねた。さらに都督三荊諸軍事・[[車騎将軍]]となり、仮の[[驃騎将軍]]の号を受けた。孝芬は荊州に向かう途中で、散騎常侍・驃騎将軍・西兗州刺史の辞令を受けた。[[532年]]([[太昌]]元年)、殿中尚書を兼ねた。まもなく尚書のまま車騎大将軍・左光禄大夫の位を受けた。[[533年]]([[永熙 (北魏)|永熙]]2年)、[[儀同三司]]の位を加えられ、吏部尚書を兼ねた。
 
[[534年]](永熙3年)、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が[[関中]]に入り、[[高歓]]が洛陽に入ると、孝芬は[[辛雄]]や[[劉キン (北魏)|劉廞]]らとともに殺害された。享年は50。一家の人々は奴隷に落とされたが、[[東魏]]の[[天平 (東魏)|天平]]年間に赦免された。
 
== 子女 ==