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'''郭 況'''(かく きょう、[[10年]] - [[59年]])は、[[新末後漢初]]の政治家。[[冀州]][[正定県|真定国]]稾県の人。姉は[[光武帝]]の[[皇后]][[郭聖通]]。祖父は真定恭王普([[劉普]])。
ayy lmao
 
== 事跡 ==
{| class="wikitable" style="float:right; font-size:smaller"
|-
! 姓名
| 郭況
|-
! 時代
| [[新]]代 - [[後漢]]時代
|-
! 生没年
| [[10年]]([[始建国]]2年) - [[59年]]([[永平 (漢)|永平]]2年)
|-
! 字・別号
| 〔不詳〕
|-
! 本貫・出身地等
| [[冀州]][[正定県|真定国]]稾県
|-
! 職官
| 黄門侍郎→城門校尉→[[大鴻臚]]→特進 
|-
! 爵位・号等
| 綿蛮侯→陽安侯→陽安節侯〔没後〕
|-
! 陣営・所属等
| [[光武帝]]
|-
! 家族・一族
| 父:郭昌、母:郭主、姉:[[郭聖通]]<br>
叔父:[[劉楊]](劉揚)、義兄:[[光武帝]]<br>
従兄弟:[[郭竟]]・[[郭匡]]、子:郭璜
|}
 
真定国の名族の生まれである。父・[[郭昌]]は早くに死に、姉の聖通とともに母・郭主により育てられた。
 
[[建武 (漢)|建武]]元年([[25年]])、郭聖通が[[劉彊|皇子彊]]を生む。当時16歳だった郭況も光武帝からその謹直な姿勢を好まれ、黄門侍郎に登用された。翌建武2年([[26年]])、郭聖通が皇后に立てられ、劉彊が皇太子となる。これに伴い、郭況も綿蛮侯に封じられた。皇后の弟である郭況の下には賓客が次々と集まり、また郭況は下士にも恭しく謙っていたため、声望を得ることになった。
 
建武14年([[38年]])、郭況は城門校尉に昇進する。しかし、この頃から郭聖通は寵愛が衰えたことに恨みを抱くようになる。建武17年([[41年]])、ついに郭聖通は廃后となり、[[陰麗華]]に取って代わられた。また、劉彊も自ら皇太子の地位を辞退した。ただ、この事件にもかかわらず、郭況はかえって大国の陽安侯に封じられることになる。また郭況を筆頭に、郭氏一族は次々と諸侯に封じられており、一族としてはむしろその地位を高めることになった。
 
建武20年([[44年]])、郭況は[[大鴻臚]]に昇進した。光武帝はしばしば郭況の邸宅を訪問し、膨大な賞与を与えた。このため、郭況の家は京師の人々から「金穴」と呼ばれたという。建武28年([[52年]])、郭聖通が死去すると、光武帝はこれを憐れみ、郭況の子である[[郭璜]]に淯陽公主を娶わせ、郎官として登用した。
 
[[明帝 (漢)|明帝]]が即位すると、同じく帝舅であった[[陰識]]・[[陰就]]とともに特進となり、たびたび賞賜を授かった。郭況は、陰識・陰就とともに敬重な待遇を受け、また、事があれば必ず彼らは平等に遇された。
 
[[永平 (漢)|永平]]2年([[59年]])、郭況は死去した。享年50。節侯の謚号が贈られた。子の郭璜が後継している。
 
== 参考文献 ==
*<span style="font-size:90%;">『[[後漢書]]』本紀10上皇后紀上</span>
 
{{DEFAULTSORT:かく きよう}}
[[Category:漢代の人物]]
[[Category:10年生]]
[[Category:59年没]]