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{{政治家
ayy lmao
|人名 = エンゲルベルト・ドルフース
|各国語表記 = Engelbert Dollfuß
|画像 = DollfussEnGinebra1933.jpeg
|画像説明 =
|国略称 = {{AUT1918}}
|生年月日 = [[1892年]][[10月4日]]
|出生地 = {{AUT1867}} [[テクシング]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1892|10|4|1934|7|25}}
|死没地 = {{AUT1918}} [[ウィーン]]
|出身校 = [[ウィーン大学]]<br />[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]
|前職 =
|現職 =
|所属政党 = キリスト教社会党
|称号・勲章 =
|配偶者 =
|子女 =
|親族(政治家) =
|サイン =
|ウェブサイト =
|サイトタイトル =
|国旗 = AUT
|職名 = 第14代[[連邦首相 (オーストリア)|連邦首相]]
|内閣 =
|就任日 = [[1932年]][[5月20日]]
|退任日 = [[1934年]][[7月25日]]
|元首職 = [[連邦大統領 (オーストリア)|大統領]]
|元首 = [[ヴィルヘルム・ミクラス]]
}}
'''エンゲルベルト・ドルフース'''({{lang-de|Engelbert Dollfuß}}、 [[1892年]][[10月4日]] - [[1934年]][[7月25日]])は、[[オーストリア]]の[[政治家]]および[[独裁者]]。
 
== 首相就任まで ==
ドルフースはオーストリアの[[テクシング]](現在の[[メルク郡]][[テクシングタール]])で生まれた。幼年期は[[神学校]]で学び、その後[[ウィーン大学]]で法律を専攻、続いて[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]で経済学を学んだ。[[第一次世界大戦]]の間、彼は徴兵に合格するには身長が足りなかったが、結局徴兵され[[1918年]]にはアルプスに送られ、間もなく戦時捕虜となる。戦後彼は農務省で働き農民協会の総裁を務めた。彼は1927年に[[ニーダーエスターライヒ州]]の農業議会の議長となる。[[1930年]]には[[キリスト教社会党]]のメンバーとなり、連邦鉄道の総裁に任命された。同党の指導的政治家であった元首相[[イグナーツ・ザイペル]]からの信任を得て、翌年には農林大臣に任命された。彼は[[1932年]][[5月20日]]に[[右翼]]の連立政権の首相に就任した。
 
== オーストロ・ファシズム ==
首相就任後のドルフースは[[世界恐慌]]によって引き起こされた問題に取り組むこととなった。しかしながら議会に於いて彼は多数派とはなり得なかった。デフレの政策は支持されず、議会に於いてキリスト教社会党と対峙する2大政党の一つ[[オーストリア社会民主党]]との対立は深まった。ドルフースは[[1933年]]3月に議会を停止し法令によって管理した。彼には更にオーストリアで民主主義を保留する別の理由があった - [[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]である。[[アドルフ・ヒトラー]]が今や[[ドイツの首相]]となり、将来のオーストリアの選挙で[[オーストリア・ナチス]]が議会の多数を占め、オーストリアが国家として存続できなくなる恐れがあった。この頃[[イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]はナチス及びヒトラーに対して好意を抱いておらず、同じ[[カトリック教会|カトリック]]の[[保守的]]価値観を持つ盟友としてドルフースを強く支持した。ドルフースは6月にナチスの活動を禁止し、翌年2月には社会民主党の活動を禁止した。これに反発する社会民主党は武装蜂起を試みたが、直ちに鎮圧された(「1934年の内乱」又は「2月事件」、「[[2月内乱]]」という)。
 
[[1934年]][[4月30日]]、ドルフースは新憲法を公布する。「職業共同体」と呼ばれる7つの職能代表からなる各評議会組織が議会に代わって組織され、それは政府に対する補助機関と位置づけられた(一種の[[コーポラティズム]])。これによって政府は事実上立法・行政の2権を掌握して、イタリア[[ファシズム]]を参考にしつつも、カトリックと中世ドイツ的な伝統に支えられた新しい国家体制を打ち立てた。国名も'''オーストリア連邦国'''(Bundesstaat Österreich)と改称された。
 
1933年9月に彼は政権を支援するための傘下グループ「[[祖国戦線 (オーストリア)|祖国戦線]]」''[[:de:Vaterländische Front]]'' を組織しキリスト教社会党と民族主義準軍事的グループ「[[護国団]](国防市民軍)」''Heimwehr'' を統合した。彼によって組織され、[[1938年]]まで続いた軍事政権はしばしば[[オーストロファシズム]] ''[[:de:Austrofascism]]'' と呼ばれた。
 
== 暗殺事件 ==
[[1934年]][[7月25日]]、8名のオーストリア・ナチス党員が首相官邸に押し入りドルフースを射殺し[[クーデター]]を試みた。それは[[アンシュルス|オーストリアのドイツへの併合]]の前兆だった。実行犯は降伏し、処刑された。[[クルト・シュシュニック]]がドルフースに続いて新しい独裁者となった。
 
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{{s-off}}
{{Succession box
| title = {{AUT1918}}[[連邦首相 (オーストリア)|連邦首相]]
| years = 第14代:1932年 - 1934年
| before = [[カール・ブレシュ]]
| after = [[クルト・シュシュニック]]
}}
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{{commonscat|Engelbert Dollfuß}}
{{DEFAULTSORT:とるふす えんけるへると}}
[[Category:オーストリアの首相]]
[[Category:第一次世界大戦期オーストリア=ハンガリー帝国の軍人]]
[[Category:捕虜となった人物]]
[[Category:暗殺された政治家]]
[[Category:1892年生]]
[[Category:1934年没]]
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