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[[Image:Visconti, Barnabò.jpg|thumb|ベルナボ・ヴィスコンティ]]
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[[Image:Milano - Castello sforzesco - Bonino da Campione (sec. XIV) - Tomba Bernabò Visconti - Foto Giovanni Dall'Orto - 6-1-2007 - 06.jpg|thumb|ベルナボ・ヴィスコンティ騎馬像、スフォルツェスコ城、ミラノ]]
'''ベルナボ・ヴィスコンティ'''('''Bernabò Visconti''', [[1323年]] [[ミラノ]] - [[1385年]][[12月18日]] [[トレッツォ・スッラッダ]])は、[[イタリア]]・[[ミラノ]]の僭主(在位1349年 - 1385年)。2人の兄[[マッテーオ2世・ヴィスコンティ|マッテーオ2世]]および[[ガレアッツォ2世・ヴィスコンティ|ガレアッツォ2世]]と共同統治を行った。
 
== 生涯 ==
ミラノ僭主[[ステーファノ・ヴィスコンティ]]とその妻のヴァレンティーナ・ドーリア(1290年 - 1358年)の間の三男として生まれた。1346年、伯父の[[ルキーノ・ヴィスコンティ (ミラノの僭主)|ルキーノ1世]]と対立して国外に逃れたが、1349年にルキーノ1世が死ぬと別の叔父である枢機卿[[ジョヴァンニ・ヴィスコンティ (枢機卿)|ジョヴァンニ]]によって兄たちと一緒にミラノに呼び戻され、共同でミラノの僭主となる。1354年に叔父のジョヴァンニが死ぬと兄2人と一緒に親政を開始し、ベルナボは家領のうち、妻の実家[[ヴェローナ]]に近接する東部地域([[ベルガモ]]、[[ブレシア]]、[[クレモナ]]、[[クレーマ]]など)を治めることになった。長兄のマッテーオ2世は自堕落で君主として不適格であり、ベルナボは1355年に次兄ガレアッツォ2世と謀ってマッテーオを毒殺、その所領をガレアッツォと折半した。
 
1356年、[[神聖ローマ皇帝]][[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]と敵対し、皇帝の代理として攻め込んできたアクイレイア総大司教[[マルクヴァルト・フォン・ランデック (アクイレイア総大司教)|マルクヴァルト・フォン・ランデック]]を生け捕りにした。1360年、ベルナボは教皇[[インノケンティウス6世 (ローマ教皇)|インノケンティウス6世]]によって異端の信者だと告発され、皇帝カール4世もこれに同調してベルナボを罪人とした。皇帝側との争いは、1361年7月29日に皇帝側の[[リミニ]]領主[[ガレアッツォ1世・マラテスタ]]にサン・ルフィロ(San Ruffillo)で惨敗したことで終わった。
 
1362年、姪の夫ウゴリーノ・ゴンザーガ([[:it:Ugolino Gonzaga|Ugolino Gonzaga]])の死を契機として、[[マントヴァ]]の[[ゴンザーガ家]]を攻撃した。ベルナボは複数の敵を相手にしたため、1362年12月、[[フランス君主一覧|フランス王]][[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世]]の仲介で、新教皇[[ウルバヌス5世 (ローマ教皇)|ウルバヌス5世]]と和睦した。この和睦の内容はベルナボが占拠した[[ボローニャ]]を[[教皇領]]に返還すること、[[アヴィニョン]]の[[アヴィニョン教皇庁|教皇宮殿]]を訪れて恭順の意を示すことなどだったが、ベルナボはいずれも無視した。このため1363年3月4日、ウルバヌス5世はベルナボに2度目となる破門宣告を出し、またも戦闘状態となった。ベルナボの庶長子アンブロージョは、教皇軍の司令官[[ヒル・アルバレス・デ・アルボルノス]]に捕えられた。1364年3月13日に教皇側との再度の和睦が成立し、ベルナボはボローニャを教皇軍に明け渡し、50万フローリンの賠償金を支払って破門を解いてもらった。
 
1368年の春、ベルナボは義弟の[[ヴェローナ]]僭主[[カンシニョーリオ・デッラ・スカラ|カンシニョーリオ]]と共同で、再度マントヴァを攻撃した。1371年、ベルナボはマントヴァ側に占拠した[[レッジョ・エミリア]]の領有を認めさせた。続いて[[フェラーラとモデナの君主一覧|フェラーラとモデナ]]を治める[[エステ家]]に攻撃を仕掛けたことで、教皇[[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]の怒りを買った。1373年、ベルナボと兄ガレアッツォに対する教皇の破門宣告がまたも出された。ベルナボは1378年、[[ヴェネツィア共和国]]と同盟を結んで[[ジェノヴァ共和国]]を攻めて[[キオッジャ戦争]]を引き起こすが、1379年9月にヴァル・ビサーニョ(Val Bisagno)で敵軍に敗れた。
 
ベルナボはトレッツォ・スッラッダに[[トレッツォ橋]]を建設させたり、ミラノでの[[ペスト]]の蔓延を精力的に防いだ<ref>Rosemary Horrox, ''The Black Death''(1994) III.65, p 203.</ref>。しかしベルナボの専制統治と重税は多くの領民の怨嗟の的となっており、彼は1385年に甥で娘婿の[[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ|ジャン・ガレアッツォ]]によって廃位された。そしてトレッツォ・スッラッダの城に閉じ込められ、同年12月に毒殺された。その末路は[[ジェフリー・チョーサー]]の『[[カンタベリー物語]]』「修道僧の話」において、暴君必滅の典型例として紹介されている<ref>チョーサーは1378年、[[イングランド君主一覧|イングランド王]][[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]の命令を受け、[[百年戦争]]にイングランド側について参戦するようベルナボを説得する外交任務を遂行すべく、ミラノを訪れている。</ref>。
 
死後、ベルナボの墓を飾る彫像として、彫刻家[[ボニーノ・ダ・カンピオーネ]]の手になる騎馬像が制作された。騎馬像は当初、ベルナボの墓があるサン・ジョヴァンニ・イン・コルカ地下聖堂([[:en:San Giovanni in Conca|Cripta di San Giovanni in Conca]])に置かれていたが、現在は[[スフォルツェスコ城]]にある。
 
== 子女 ==
1350年9月27日に[[ヴェローナ]]の僭主[[マスティーノ2世・デッラ・スカラ|マスティーノ2世]]の娘[[レジーナ・デッラ・スカラ|レジーナ]]と結婚した。妻との間には15人の子女をもうけた。
*[[タデア・ヴィスコンティ|タデア]](1351年 - 1381年) - 1364年、バイエルン公[[シュテファン3世 (バイエルン公)|シュテファン3世]]と結婚
*[[ヴェルデ・ヴィスコンティ|ヴェルデ]](1352年 - 1414年) - 1365年、オーストリア公[[レオポルト3世 (オーストリア公)|レオポルト3世]]と結婚
*[[マルコ・ヴィスコンティ (1353-1382)|マルコ]](1353年 - 1382年) - [[パルマ]]領主、1367年にバイエルン公女エリーザベトと結婚
*ルドヴィーコ(1355年 - 1404年) - パルマ領主、[[ローディ]]代官、1381年にヴィオランテ・ヴィスコンティと結婚
*[[ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ (キプロス王妃)|ヴァレンティーナ]](1357年 - 1393年) - 1378年、キプロス王[[ピエール2世 (キプロス王)|ピエール2世]]と結婚
*ロドルフォ(1358年 - 1389年) - [[パヴィーア]]領主
*カルロ(1359年 - 1403年) - パルマ領主、1382年にベアトリス・ダルマニャックと結婚
*[[アントーニア・ヴィスコンティ|アントーニア]](1360年 - 1405年) - 1380年、ヴュルテンベルク伯[[エーバーハルト3世 (ヴュルテンベルク伯)|エーバーハルト3世]]と結婚
*[[カテリーナ・ヴィスコンティ|カテリーナ]](1362年 - 1404年) - 1380年、ミラノ公[[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ]]と結婚
*[[アニェーゼ・ヴィスコンティ|アニェーゼ]](1363年 - 1391年) - 1380年、マントヴァ領主[[フランチェスコ1世・ゴンザーガ]]と結婚
*[[マッダレーナ・ヴィスコンティ|マッダレーナ]](1366年 - 1404年) - 1381年、バイエルン公[[フリードリヒ (バイエルン公)|フリードリヒ]]と結婚
*ジャンマスティーノ(1370年 - 1405年) - [[ベルガモ]]領主、1385年にクレオーフェ・デッラ・スカラと結婚
*[[ルチア・ヴィスコンティ|ルチア]](1372年 - 1424年) - 1407年、第4代ケント伯爵[[エドマンド・ホランド (第4代ケント伯爵)|エドマンド・ホランド]]と結婚
*[[エリザベッタ・ヴィスコンティ|エリザベッタ]](1374年 - 1432年) - 1395年、バイエルン公[[エルンスト (バイエルン公)|エルンスト]]と結婚
*[[アングレシア・ヴィスコンティ|アングレシア]](1377年 - 1439年) - 1400年、キプロス王[[ジャニュ (キプロス王)|ジャニュ]]と結婚
 
ベルトラモラ・グラッシ(Beltramola Grassi)との間に以下の私生児をもうけた。
*アンブロージョ(1343年 - 1373年) - パヴィーア代官
*イゾッタ(? - 1388年) - 1378年、父に仕える[[コンドッティエーレ]]のルッツ・フォン・ランダウ(ルチオ・ランド)伯爵と結婚
*[[エストーレ・ヴィスコンティ|エストーレ]](1346年 - 1413年) - [[モンツァ]]領主、1412年にミラノを簒奪
 
モンタニナ・デ・ラッツァーリ(Montanina de Lazzari)との間に以下の私生児をもうけた。
*サグラモーロ(? - 1385年) - [[ブリニャーノ・ジェーラ・ダッダ|ブリニャーノ]]領主
*ドニーナ(1360年 - 1406年) - 1377年、父に仕えるコンドッティエーレの[[ジョン・ホークウッド]]と結婚
 
ジョヴァノッラ・モンテべレット(Giovanolla Montebretto)との間に以下の私生児をもうけた。
*ベルナルダ(? - 1376年) - Giovanni Suardiと結婚
 
ドニーナ・ポッロ(Donnina Porro)との間に以下の私生児をもうけた。
*パラメーデ(生没年不明)
*ランチェロット(生没年不明)
*ジネヴラ(生没年不明) - マラスピーナ侯レオナルドと結婚
*ソヴラーナ(生没年不明)
 
この他にも母親不明の私生児がある。
*リカルダ(生没年不明) - ラ・サーレ領主ベルナルドと結婚
*ヴァレンティーナ(生没年不明) - ベルジョイオーゾ領主アントーニオ・ジェンティーレ・ヴィスコンティと結婚
*エンリカ(生没年不明) - コモ領主フランシーノ・ルスカと結婚
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{cite book|first=Daniela |last=Pizzagalli|title=Bernabò Visconti|publisher=Rusconi|location=Milan|year=1994}}
 
== 外部リンク ==
*{{Commons-inline|Bernabò Visconti|Bernabò Visconti}}
* [http://www.storiadimilano.it/Personaggi/Visconti/bernabo.htm Biography] {{it icon}}
 
{{先代次代|[[ミラノの支配者一覧|ミラノの僭主]]|1349年 - 1385年<br /><small>[[マッテーオ2世・ヴィスコンティ|マッテーオ2世]](~1355年)、[[ガレアッツォ2世・ヴィスコンティ|ガレアッツォ2世]](~1378年)と共同統治</small>|[[ルキーノ・ヴィスコンティ (ミラノの僭主)|ルキーノ]]|[[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ|ジャン・ガレアッツォ]]}}
 
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:へるなほ ういすこんてい}}
[[Category:ミラノの僭主]]
[[Category:ヴィスコンティ家]]
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[[Category:1385年没]]
[[Category:暗殺された人物]]
[[Category:ミラノ出身の人物]]